田渕町、畝丘樹下神社〔2096〕2009/01/10
2009年1月10日(土)快晴!
昨日から今日にかけて、雪が降るかも知れんという予報やったですが、昨日よりはちくと気温が低いばあのことで雪はいっさい降らんかった高知市内です。今日は家から北へ、電車通りの北方面をたつくってきました。
この界隈、田渕町、新町、鉄砲町と並ぶ、藩政期初期の頃に都市計画の一環でつくられた古い街。その中に、このようなお宮さんが鎮座されちょります。田渕町の東端ですな。
この鳥居に掲げられた扁額には「畝丘樹下神社」と書かれちょります。ちくと聞き慣れん、しかし由緒有りげな名称のお宮さん。
調べてみますと、どうやらオイゲ神社と読むにかありません。元々日本書紀で、火の神を生んで亡くなったイザナミを嘆いたイザナミの涙が畝丘の樹下に落ちて神となり、泣沢女神(ナキサワメノミコト)となったとかいう話が書かれちょります。が、たぶんここの神様は、新田として開発されたこの界隈の豊穣を祈り、勧請されてきたがらしいです。畝丘樹下はオイゲで、イゲであり、神母なのでありました。高知の皆さんならご存じですよね、神母(イゲ)。土佐山田の向こうに神母ノ木(イゲノキ)がある通り、神母(イゲ)は農業、豊穣の神様で、新しゅうに開発されたこの地域を守る神様は神母であり畝丘樹下さまなのでありました。
ここから東へ行くと宝永堤。宝永の大地震(1707年)の際に、お街への高潮高波を防ぐために整備されたき宝永堤ながですが、元々寛永2年(1625年)という早い時期に作られちゅうがですな。知らんかったです。堀川の三ッ頭から江の口川まで。で、この界隈は新田やニュータウンとして整備されたがですが宝永地震で崩壊して冠水、その堤防を修復、強固なものにして「宝永堤」となったがでしょう。