朝倉、柳田遺跡の弥生人たち〔2049〕2008/11/24
2008年11月24日(月)雨
今日の高知は雨。朝から小雨がシトシトの静かな休日月曜日です。
今朝は、そんな雨に身体を洗い流してもらいながら、鏡川界隈をたつくりまわってみました。雨の鏡川を走りよりますと、その昔からこの川の恵みを得る為に、この川の氾濫と戦うてきた高知の歴史が思い起こされます。
もちろん山内一豊さんが土佐入国の際、鏡川沿いに街づくりを考えた時も、この治水を一番に考えました。今の市街地は古代は浦戸湾の底で、その周辺部が湿地帯として、ヒトが住んだりしよったエリア。ここ朝倉は、実は、太古の昔から鏡川の恵みと共に、ヒトが生活しよりました。
この「勝負川」という面白いバス停のある場所は、朝倉、土佐道路にございます。向こうにネッツトヨタ南国さんのお店が、そして、もうちょっと向こう、東へ行くと大型量販店フジグラン高知さんがあります。柳田という地区。
土佐道路のこの界隈は、昭和56年から57年頃に工事が行われたがですが、昭和56年12月、丁度この辺りの工事現場から、高知市内最古の弥生遺跡が発見されました。柳田遺跡と名付けられたその遺跡は、大型店舗の建設に際などにも発掘が繰り返され、縄文後期の土器破片がみつかったりしてなかなか重要な遺跡ということが判ってきたのであります。が、今日、見てみたところ、ここに遺跡があるということが判る痕跡はまったくありません。たぶんこの辺やろうと、勝手に想像して写真におさめました。
ここに弥生集落があったがは、弥生前期末から中期前半にかけてのピンポイント。それ以降は、古墳時代まで集落が消え失せちょりますきに、鏡川の大氾濫で壊滅、その後ここに集落をつくるがは諦めて高地性集落へと移動していったがかも知れません。鏡川が鏡村の方から南下してきて、朝倉駅の東で東へと向きを変えます。ここ柳田は、その鏡川が曲がる場所の南にあり、氾濫の影響をこぢゃんち受けやすかったことが推察されます。その分、土地は肥沃やったがでしょうね。
その、壊滅した集中豪雨の際、ここの集落の皆さんは無事やったがでしょうか。南へちょっと、今なら走って10分くらいで山がありますきに、そこへ逃げたろうかと想像して、今朝はここから南の山の方に走ってみました。イカンです。途中に、これも太古から流れよったと思われる神田川が。ここは神田川と鏡川に挟まれちょって、どちらかの川を渡らんと高台に避難できません。う~ん、慌てたでしょうな。
畑や家も流されたでしょうが、人的被害もかなりあったことを体感してしまいました。そんな柳田遺跡、ちくと案内板でもつけてくれたら弥生人の息吹を感じれるでしょうにね。