長宗我部元親と岡豊城〔201〕2003/11/03
2003年11月3日(月)雨
今日は文化の日。
昨日の200日連続達成を高知城で迎えましたので、長宗我部さんのご紹介もしちょかんと片手落ちになると思い、今朝は雨の中、高知市の東隣の南国市岡豊(おこう)にございます、岡豊城址まで走ってきました。
浦戸湾に流れ込む国分川を遡行していきますと、布師田地区を抜け、高知大学医学部(この9月までは高知医科大学でしたが、10月から高知大学医学部になりました)の脇を過ぎると岡豊山に到達します。
長宗我部氏は、ここのお城を本拠として、戦国時代に大活躍します。長宗我部氏がここへやって来たのは鎌倉初期と言われちょりまして、ここのお城も13世紀頃から築かれちょったと伝えられます。「土佐物語」によりますと一度このお城は落城しており、長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の父国親(くにちか)の代に復帰、国親元親の2代にわたって破竹の快進撃を繰り広げる根城となりました。1588年、現高知城の在る大高坂山に移転するまで、栄えに栄えたお城でした。元親は、ここを起点にして土佐一国のみならず四国全土を平定した戦国の英雄で、秀吉に破れるまで四国全土に君臨しました。
近年、この岡豊山の麓、国分川の河原に大規模な桟橋、荷受場があったことを示す遺構がみつかり、長宗我部氏の資金源は南海貿易であったのではないかとも言われるようになりました。
この山は標高97m、戦国時代にはよくあるタイプの山城で、詰の段や三の段、四の段には建物の礎石が残されちょります。
写真は頂上部分、詰の段でえらそうに立つひまわり太郎ですね。残されちゅう礎石により、2階以上の層をなした、後の天守閣に相当するような建物があったと想像されちょります。今日は長宗我部氏の無念を示すにふさわしい雨のお天気ですが、晴れますと、高知の平野全域から太平洋まで望むことのできる、すばらしい立地になっちょります。
ひまわり太郎は、降りしきる雨の中、長宗我部氏の心中に思いを馳せながらこの山の中をたつくってきました。
今日は文化の日。
元親は、武人としては言うまでもありませんが、土佐の文化育成にも努めたマルチ人間でした。土佐神社や国分寺を再建し、地検帳でこの時代の詳しい様相を伝えてくれる長宗我部氏に敬意を表するにはとてもふさわしい日ではないでしょうか。