雨の紅葉橋、吉田東洋さんの首〔1981〕2008/09/17
2008年9月17日(水)雨が降りよります
いやいや、今日はにっこりを書くががこぢゃんと遅うなってしまいました。もう9時まわっちょりますな。今晩は、仕事の後、鏡川をたつくりまわって帰ってきました。心地良い雨模様やったですきに、身体がスッキリしましたですね。
ここは鏡川、紅葉橋。雨の紅葉橋は、照明が見事に紅葉みたいですな。何で紅葉橋という名称か。
藩政期後期、鏡川下流部に架かっちょったのは天神橋だっけ。その次に上流に架けられちょったのは長縄手の上にあった雁切橋。
山内家の防衛上の問題で、わざと鏡川には橋を架けんかったがですね。で、その通称雁切橋は、明治初年に鏡川河口に架けられた橋が、橋の袂に青柳があったことにちなんで青柳橋と名付けられたがに対抗して紅葉橋と名付けられました。橋の袂に紅葉があったきです。
雁切橋という名称の由来は、この橋の袂、鏡川の河原に首切り場があったきです。ですきに、紅葉橋という風流な名前に変えた気持ちも良くわかります。ですけんど、いまだに、雁切橋と呼ぶヒトの方が多いような気もします。
この雁切橋の北詰、長縄手に首を晒されたがで有名な人物は、幕末の土佐藩の宰相、吉田東洋さん。吉田東洋さんは、武市半平太率いる土佐勤王党のメンバーのよって暗殺されまして首を切り落とされ、そのままここ雁切橋の袂まで運ばれてきて首を晒されたそうです。その日も、今晩のような雨が降りよりました。那須信吾ら3名の暗殺者は、現在の新月橋の北詰近く、今もある観音堂で同志にその首を渡し、脱藩していきましたが、首を渡された勤王党の同志はここ、雁切橋北詰に晒したのでありました。
暗殺された帯屋町から観音堂まで、走ると30分かかりません。そこからここまではゆっくり走って8分。こぢゃんと慌てちょったでしょうき、殺害してから晒すまではしゅっとやったでしょうね。夜の雨の中を走ってきてみて体感してみました。