ショッパーズプラザコーチ、ダイエーショッパーズ高知店の運命〔1795〕2008/03/15
2008年3月15日(土)夏です
しかしまあ、今日の高知市内は初夏ですな。いや、高知にとっては初夏の感じで、もっと北にお住まいの皆さんにとっては立派な「夏」やないでしょうか。そんな、日差しがきつい、春の一日。車を陽光の下に停めちょりましたら、乗るときに車内が暑うて暑うてエアコンぎんぎんにかけてしまいました。
さて、ここはどこでしょう。ここは、ショッパーズの取り壊し現場であります。東側、中の橋通りの工事車両入り口から、取り壊しゆう途中のショッパーズを撮影してみました。もう、かなり工事も進んで、建物は無惨な外壁を残すのみ、てな感じになっちょります。
この場所、ひまわり太郎が北隣の追手前小学校へ通いよった頃には、大きな病院がありました。学校の南の塀を乗り越えると、穴の空いた板塀から帯屋町側へ通りぬけれましたですね。ヒトンクですきに、ホントはいかんがですけんど。
この帯屋町2丁目界隈、実は、戦前には大きな病院がいくつか並ぶ場所やったそうです。で、戦争の空襲で焼けて、金物屋さんの広末さんが、焼け跡から掘り出したヤカンとかを売り始めたのが高知の街の戦後復興の第一歩。そして、この界隈の土地を持っちょった地主さんには、商店以外の方には土地を売らんように、とお願いし、帯屋町商店街の基礎をつくっていきました。で、この場所には大丸さんを誘致。当時、大阪、京都、神戸くらいにしか店舗のなかった大丸を、昭和22年という早い時期に誘致した熱意はすごいですな。
その後、大丸は現在の位置に移転し、残されたこの場所は、また病院になってしまいました。それが、ひまわり太郎が中学生になる頃まで続きます。で、病院は旭町に移転し、ここにショッパーズプラザコーチがオープンしました。高知でもコウチでもない「コーチ」がちくとハイカラですな。それから曲折を経てダイエーさんの直営店になり、そして2005年11月末日をもって閉店となったのでありました。
ここ、取り壊されたあとがどうなるがかは、まだ何ちゃあ決まっちゃあしません。北の追手前小学校の運命とともに、こぢゃんと気になる所。中心部活性化の目玉に成りうるがでしょうか。戦後、ここの復興と繁栄に尽力された皆さんに、お聞きしてみたいですね。焼け跡でヤカンを売った広末静一さんやったら、どう考えるでしょうか。