岩崎兄弟、吉田東洋さん、六郡中〔1786〕2008/03/06
2008年3月6日(木)今日も晴れ!
朝はちくと冷えました。簡単には春にはなりませんな。が、日中は温うなりそうな高知市内。今朝、ラジオの「今日は何の日?」というコーナーで、明治23年の今日、三菱の岩崎弥之助さんが東京丸ノ内にあった陸軍の広大な練兵場などの土地を国から購入、ロンドンのようなオフィス街をつくることを目指しで計画を始めた、という話が紹介されよりました。現在の丸ノ内オフィス街のスタートですね。岩崎弥之助さんと言えば、土佐出身の三菱創業者岩崎弥太郎さんの弟で、二代目の社長。
三菱多角化戦略の立役者であり、現在の三菱グループの骨格をつくった人物。土佐の安芸で生まれて藩校到道館で学び、16才違いの兄と一緒に草創期の三菱で活躍しました。
その兄、岩崎弥太郎さんは、若い頃、土佐藩の参政、吉田東洋さんの塾で学んじょります。一昨日ご紹介した、幕末土佐を引っ張った大人物、吉田東洋さん。吉田東洋さんは、1843年11月から1845年まで、藩の郡奉行をつとめられちょります。28才から29才の頃。その在任中に、「済農倉」設立の提言を藩に対して行うちょりますね。いざという時の為の農産物の貯蔵は、それぞれの区域で行われよりましたが、それを藩の指導下に置いてキチンと組織したものにすべき、というもの。その上書の中に、「(上略)右済農倉御取極めに相成候時は(中略)向々は六郡中へ行渡り候様仕はえ申す時は、事に臨み実に郷民どもの為に相成り申すべきのみならず・・・・・」とあります。この政策はその後実行に移されて成果をあげるのでございますが、ここで、ひまわり太郎の目に止まったがはこの「六郡中」。どっかでこの言い回し、見たことあるぞ、と記憶を辿り、ここ潮江天満宮の天保年間に立てられた燈籠に刻まれちょったことを思い出しました。これ、どういう意味ながやろう、と、ずうっと思いよったがですが、どうやら土佐藩の行政区分の六郡のことみたいです。土佐の郡は、安藝郡、香美郡、長岡郡、土佐郡、吾川郡、高岡郡、幡多郡、と、7つあります。これぢゃあ七郡になる訳ですが、たぶん、おそらく、幡多郡は別に幡多郡奉行をたてて管理されよったので、ここで言う六郡は、幡多を除いた土佐全部、てな意味合いながやないでしょうか。想像ですき、違うかも知れません。色々と想像が広がって楽しいですな。