帯屋町1丁目、吉田東洋さんの自宅〔1784〕2008/03/04
2008年3月4日(火)東京も晴れ、黄砂がすごいです
今日は東京に来ちょります。朝、1便でやって来まして仕事を済ませ、今、最終便で高知へいぬるがに、羽田空港でゆっくりしよります。さっき、飛行機に乗り遅れそうな若いお兄さんと、それを搭乗口へ案内するANAの地上係員のスーツ姿のお姉さんが走って追い抜いていきました。若いお兄さんも、一生懸命走りよったがですが、先導する地上係員のお姉さんが速い速い。途中までは並んだ感じで走りよったがですが、あれよあれよと言う間にぶっちぎり。スカート姿のお姉さんのスピードに、思わず感動してしもうた羽田空港です。
さて、ここは、今朝の高知市内。高知空港へ行く前に立ち寄った帯屋町。帯屋町1丁目で、高知の商店街の中心地。堀詰と中の橋の間のアーケードで、リブロードという商業施設の前から西向いて撮影してみました。この、100円ショップのちょっと向こうくらいに、藩政期末期、吉田東洋さんという土佐藩の参政が住みよりました。元々、藤原秀郷さん、あの平将門さんを討った俵の藤太秀郷さんの子孫で、土佐山内家とは、相模山内家の出ということで、こぢゃんと昔は同族やったみたいです。が、そのうちに土佐にやって来て長宗我部氏の重臣となり、戦国期は大阪の陣まで長宗我部氏に従うた吉田家。山内氏土佐入国後、ほとんどの長宗我部重臣が他国に召し抱えられていったのに、吉田氏は土佐藩に上士として召し抱えられました。長宗我部家臣は、通常召し抱えられても下級武士やったがですが、吉田家は、昔昔同族やったきでしょうか、上級武士として就職できたのであります。その子孫が吉田東洋さん。
とにかく、官途につくなり、その有能さは城下に響き渡ったみたいですね。藩主に認められ、幕末の土佐藩の藩政改革に邁進しました。守旧派とのすさまじい争いを勝ち抜き、藩主にも信用されて、幕末に土佐がニッポンという国で活躍する礎をつくったのは、間違いなく吉田東洋さんの功績。山内容堂さんからは師として仰がれ、福岡孝悌さんや後藤象二郎さん、そして三菱創始者の岩崎弥太郎さんなどは、吉田東洋さんの直弟子になります。
1862年、土佐勤王党のメンバーの手によって、暗殺された東洋さん。守旧派からは改革はとして恨まれ、急進派からは保守派として反発された東洋さんは、実は、一番、世の中のことを冷静に考えよった人物かも知れません。
4月8日、土佐藩15代藩主山内豊範さんは、高知城で、東洋さんの日本外史の講義を聴きました。最終回ということで、終了後に酒食が振る舞われ、夜10時頃帰途についたそうですね。写真をご覧下さい。向こうの、青信号の光りゆう、あの辺りで凶刃に倒れたそうです。家まではしゅっとでした。