堺町、堀詰、新京橋、京町、種崎町のにぎわい〔1758〕2008/02/07
2008年2月7日(木)晴れ!
今日も良いお天気。天気予報を見てみると、週末に高知にも雪だるまマークがついちょりましたが、どうなるでしょうね。
さて、ここは今朝の堺町。夜明け前の堺町。向こうの明るい所がはりまや橋交差点で、左手に新しいホテルが建ちよります。この、電車が走りゆう地点を含む、ここから右手の界隈は、堺町、八百屋町の繁華街でした。明治大正の頃のお話。藩政期にもやっぱし幹線やった本町、現在の電車通りは、お城の前からずうっと東にきて堀詰に出ます。で、堀詰から新京橋を渡って堀川の北岸沿いに行くががメインルートやったみたいです。
そこには京町、種崎町の繁華街が広がっちょりました。また、新京橋を渡らんづくとに堀詰橋を渡ると堺町で、そこもなかなか賑やかな繁華街。
で、明治37年に土電の電車「桟橋~梅ノ辻線」と「堀詰~乗出線」が開通したあと、明治39年に梅ノ辻と堀詰がつながります。その際、この堺町界隈の住民から反対運動が巻き起こって、電車は潮江橋北詰から西進、現在のグランドホテルさんの前で右折し、北進して堀詰につながっちょった話は何度も幾度もびっしりぎっちりしちょりますね。確かに、電車が通ると町が分断され、ヒトが通りぬくうなって、ヒトが密集したごちゃごちゃした賑わいが廃れていくことが危惧された訳ですね。
昭和3年、堀詰からはりまや橋に路線が延び、はりまや橋の南に電車の交差点ができて、現在に近い姿になりました。で、賑わいはどうなったのか。
以前、高知出身の漫画家、故横山隆一さんの手記をご紹介しました。横山さんは堺町生まれ。そこには、お母さんが「電車が通るようになると急にさびれて、京町や種崎町のほうがにぎやかになった」と話されたと書かれちょります。まちづくりというのはなかなか難しいもんです。都市計画も国土計画も。地方都市にとって、大都市と直結する道路をつくるということはどういうことか、町にとってホントに幸せなことかどうか。これはキチンと考えてていかんといかん議論やなかろうか、と、早朝の堺町を見ながら考えました。