要法寺、桂昌寺、妙國寺〔1756〕2008/02/05
2008年2月5日(火)快晴!
からりと晴れ渡った朝。放射冷却でちくと冷やかったですが、氷点下にはなっちょらんみたいです。が、日陰に停めちゅう車のフロントガラスはカチバリツイちょりました。
ここは堺町と堀詰の間を南へ入った所。
この東が要法寺町で、西が中島町。要法寺町界隈は、戦国の頃、国沢氏が城を構えて威勢を張っちょった場所。今の街中では、高知城の山の大高坂氏と、ここの国沢氏が二大勢力やったみたいですけんど、長宗我部対本山の戦国決勝戦の中で滅ぼされていったみたいです。当時の国沢城主は国沢将監さん。
ここは鏡川河口部の土砂が堆積した、少し盛り上がった台地になっちょったようで、そこに国沢氏はお城を構えた訳です。
何で要法寺町というかと言えば、山内一豊さんが入国してきて、山内氏菩提寺の要法寺をここに建てちょったことに由来します。1687年の火事で焼失し、現在の筆山麓の場所に移りました。ですけんど、ここは今でも要法寺町と呼びます。現在の正式町名は、隣の堺町と一緒になって「堺町」になって味も素っ気もないがですけんど、地元のヒトは要法寺町と呼びます。要法寺がここにあったがは今から320年以上昔のことですが、それでも要法寺町と呼ぶがが素敵ですな。
藩政期初期、その要法寺の隣に、桂昌寺というお寺さんもありました。室町時代、土佐を支配した守護代、細川氏ゆかりのお寺さんで、1501年に、4代目守護代細川勝益さんが、初代守護代の細川頼益さんを偲んで南国市田村に建立したががその始まり。山内氏入国で、ここ要法寺町に移されちょりました。が、1687年の火事で要法寺と一緒に焼けてしまい、潮江の、要法寺の移設先のだいぶ南に移されました。名前が変わって今は妙國寺。こないだ、1月16日のにっこりで護送会したガソリンスタンドの隣の立派なお寺ですね。。
妙國寺、と聞いて何やら記憶があるので調べてみましたら、そう、大阪堺の妙國寺。幕末も幕末、慶応4年に起きた堺事件で、土佐藩士がフランス兵を銃撃して、責任を取って土佐藩士11名切腹したがが堺の妙國寺やったですな。