桟橋の土電電車、その歴史〔1733〕2008/01/13
2008年1月13日(日)晴れ!
今日は日曜日。明日が成人の日ということですが、今日の街にも晴れ着姿の新成人さんがいっぱい通りよりました。
高知には、土佐史談会という由緒ある団体がありまして、ひまわり太郎も会員やったるするのでありますが、その会が発行する「土佐史談」という機関誌は、この12月号で第236号を迎えちょります。その号は、「土佐の産業史」特集号。土佐の様々な産業の歴史を、その産業に携わる方々が調査して書き下ろした論文がいっぱい掲載されちょって、なかなか面白い読み物になっちょります。
その中に、「土佐電気鉄道」という項目がありました。土電の歴史ですな。知らんかった土電の歴史が詳しゅうに書かれちゅうので、こぢゃんと嬉しゅうなります。
それによれば、土佐電鉄の電車が、堀詰~乗出と梅ノ辻~桟橋の間に開業したのは明治37年5月2日。四国初、全国でも10番目で、横浜より2ヶ月早かったそうです。桟橋線は、阪神方面への船と結ぶ路線として敷かれ、土佐電鉄さんは桟橋までつくったのでありました。明治37年の開業には、桟橋の完成は間に合わず、終点から艀で渡合(とあい)という所まで出て、そこで船に乗り換えよったとか。しかし、明治37年10月には桟橋も完成、電車と船はつながったのでありました。
写真の右手、電車が停まっちゅう所が現在の桟橋五丁目。終点です。当時、電車に乗ってここまでやって来た皆さんは、この南側につくられた桟橋で船に乗り、阪神方面へと出掛けて行きよった訳です。いや、ヒトだけぢゃ無うて、当時は貨物も運搬しよりまして、明治41年に早くも伊野までつながった電車は、伊野の紙製品を高知港まで運び、高知港から製紙原料や薬品を伊野まで運びよったそうです。
この桟橋線開通に併せて、浦戸、種崎と結ぶ定期乗合船も運航を開始。高知のヒトは巡航船と呼びますね。浦戸に家があったひまわり太郎の母親は、その巡航船でここまで出て、電車に乗ったり歩いたりして中学校へ通いよったらしいです。
昭和10年、この左手の方向に新桟橋ができて、阪神航路はそちらからの発着になり、この南の桟橋は巡航船専用の桟橋になりました。