春野町、行当の切抜〔1697〕2007/12/08
2007年12月8日(土)快晴!
今日は晴れて暖かい土曜日。いや、ホントにぬくいです。
高知市の広報誌に「あかるいまち」という冊子があるがですが、その裏表紙に、郷土史の大御所、広谷喜十郎先生が、高知市の色んな歴史について書いてくれよります。今月号は、来月から高知市に合併させることになる現吾川郡春野町の歴史を、詳しゅうに書かれちょりました。そのお話に基づいて、今朝、「春野探索野中兼山は偉かったラン」を敢行したのでありました。
春野は「土佐のデンマーク」と称される、こぢゃんと豊かな農産物生産地帯。「高知育ちシリーズ」のトマトヨーグルトに使うちゅうトマトも、春野産ですな。
その、豊かな土地の礎を築いたがが、藩政期初期の土佐藩の執政、野中兼山さんということは、よう知られちょります。野中兼山さん、大河仁淀川の、八田という所に堰をつくり、そこから春野の平野に灌漑用水を引いたのであります。その工事は、1648年から5年間やったそうですけんど、ものげっちょいばあ難工事やったらしいですね。途中、有名な「切り抜き」が2カ所あります。一つは、この写真のクにあった「行当の切抜」。八田から下ってきた、仁淀川沿いのこの地点、山が迫り、水路を掘るには難儀したそうです。大きい固い巨岩があっったらしいですね。現在はご覧のように「行当トンネル」というトンネルを水路が抜けてきちゅうがですが、当時は高さ27m、幅12mで長さ90mの切り抜きやったそうです。この上に「兼山遺跡」と刻まれた記念碑が建てられちょりますね。
もう一つの切り抜きは、こないだご紹介した長浜、戸の本から西へ行ったクにある「唐音(からと)の切抜」。仁淀川水系の用水路を、山の間を強引に抜いてお城下の浦戸湾につなげる、というものすごい発想、都市計画によって、5年の歳月を要して建設された「唐音の切抜」は、今でもその雰囲気を体感できます。
高知市横浜を出発、長浜戸の本から兼山さんが作った新川川(しんかわがわ)沿いに唐音を抜け、春野の沃野をたつくりたつくり、仁淀川沿い、行当の切抜を抜けて八田堰横を遡上、いの町の蘇鶴温泉までの20km弱のランは、のったりまったりと楽しゅうございました。