秦神社、長浜城址〔1652〕2007/10/24
2007年10月24日(水)こぢゃんと快晴!
今朝は秦神社。昨夜、横浜(高知の横浜です。東京?の横浜ぢゃありません)に泊まっちょりまして、今日は早朝から瀬戸、長浜方面をたつくりまわってきました。メッソ走ったことのない土地ですきに、色々と面白かったです。あちこちで金木犀の香りが漂うて、素敵な秋の朝でございました。
この秦神社は、今年10月7日のにっこりでもご紹介した長浜の雪蹊寺の隣に鎮座されちょります。雪蹊寺は、そこにも書いちゅう通り長宗我部氏の菩提寺です。明治3年の廃仏毀釈で一旦廃寺になってしまいました。
その際に、子孫の島弥九郎さんたちが、雪蹊寺の元親公木像や戸次川戦没者名簿を記した霊板などをご神体として建立したががこの秦神社。実は、10月7日のにっこりに写真で、塀の向こうに秦神社の屋根が写っちゅうがです。
この神社の背後に聳える山は、長浜城のあった山。戦国期、ここは本山氏の支城やったがですけんど、永禄3年(1560年)5月26日の夜、元親さんのお父さん国親さんが奇襲して攻略しました。風雨の激しい嵐のような夜やったそうです。浦戸湾対岸の種崎から御畳瀬(みませ)に渡り、攻め込んで来たがですね。御畳瀬から長浜へ進んでくると、正面にその山を東から望むことになります。その山の北西に「夜討が谷」と伝えられる場所があるそうですきに、城の裏手に廻って奇襲をかけたがでしょうか。
そう言えば、この、長浜城攻めの際に手引きしてくれたのが、このお城の工事を手掛けちょった大工上手の福富右馬丞さん。元々国親さんの譜代の家臣やったのが咎を受けて浪人になり、長浜城主大窪美作守さんに仕えよりました。で、国親さんから、手引きをしてくれたら咎を許して取り立てる、という条件を出され、寝返ったがですな。北西が「夜討が谷」というのは、そちらから手引きされて攻め込んだということでしょうかね。
この長浜城攻めに同行しちょったのが22歳の若武者元親くん。長浜落城の知らせを受けて朝倉城から本山茂辰(しげとき)さんが出陣してきて、ここの西の「戸の本」で長宗我部対本山の大合戦となります。そこで初陣、大活躍して武名を高めたのが元親くんという訳です。
ここから一気に長宗我部氏が土佐、四国平定へと邁進していくことになったのであります。
この長浜界隈、こぢゃんと長宗我部さんの匂いがします。いろんな所にその面影が垣間見えます。岡豊よりも、この界隈の方が長宗我部っぽい土地ですな。