桟橋通、土電電車、高知駅、交通結節点〔1651〕2007/10/23
2007年10月23日(火)晴れちょりますが、雲はちっくとありますな
秋の朝です。
ここは潮江橋南詰。桟橋方面を撮影しちょります。朝のこの時間、土電の桟橋車庫から出て来て業務に入る電車がひっきりなしに通って行きます。これから一日が始まるぞ~!てな雰囲気が醸し出されちょりますね。この電車通り、とにかく桟橋までまっすぐ。見事に直線になっちょります。戦前はもっと狭かったそうですが、やっぱしこの場所にまっすぐ通っちょったそうです。
桟橋まで電車が開通したのは明治37年。大型船が直接接岸できる桟橋が浦戸湾内につくられ、そこで乗り降りするヒトの為につくられた梅の辻~桟橋線。
当時の最もメインの長距離交通機関は船。もちろん土讃線などの鉄道もありませんし、道を走る公共交通機関もあるわけもなし。物資を運ぶがもヒトを運ぶがも船。
この桟橋線が開通して間もなく、明治40年の、20000分の1の地図を見てみますと。この梅の辻周辺から桟橋までは田んぼがあるだけで、ホントに何にもありません。田んぼの真ん中を、定規で引いたようにまっすぐつくられたがが桟橋線の電車軌道ながです。桟橋界隈も何にもありません。住居もなにもありません。つまりですね、桟橋へ発着する船を利用するヒトの為に、まさにその人達だけの為につくられた交通機関やったということが、その地図を眺めよったらしゅっと解りますね。
その明治40年当時には潮江橋もできちょって、桟橋から来た電車は潮江橋を渡ってすんぐに左折、ちょっと行って右折して、堀詰へ出よりました。その後潮江橋北詰からはりまや橋を通るコースになり、はりまや橋が電車の交差点へとなっていったのでありました。
大正の終わり頃、鉄道の高知駅ができます。で、昭和3年にははりまや橋から高知駅までの土電電車が開業。その当時の地図を眺めますれば、何であんな場所に高知駅がつくられたがか何となく解ります。桟橋からの電車を、まっすぐ北へ走らせた田んぼの真ん中に高知駅。交通の結節点という考え方でしょうか。道路を走る車が交通手段ではない当時、船と鉄道を中心に都市計画が考えられよったがでしょうな。