潮江天満宮、玉垣の秋月さん〔1650〕2007/10/22
2007年10月22日(月)ド快晴!
今日も秋晴れ。真っ青な空が素晴らしゅうございます。
ここは今朝の潮江天満宮参道。この一連の玉垣は、大正10年12月、「天満宮維持会」という会が結成された際に奉献されたものらしいです。ご覧のように一人当たりの寄進金額と、寄進者の住む町名と氏名が刻まれちょります。「維持會 会員一人前 金六拾円寄付」となっちょります。米価換算で、大正10年の貨幣価値は1円が現在の約7,700円くらいという報告がありますきに、六拾円と言えば462,000円。結構な金額ですな。大正9年に第一次世界大戦後の株式大暴落があったりしちょりますきに、景気はメッソ良うなかったでしょうに。頑張っちょります。
さて、この玉垣の、一番手前の方にご注目下さい。「市 唐人町 秋月育雄」と刻まれちゅうですね。唐人町は、潮江天満宮から言えば鏡川対岸の、東の方。川沿いの細長~い区域が唐人町。このにっこりでもビッシリ書いちょりますように、長宗我部元親さんが秀吉の朝鮮出兵で出陣し、朝鮮慶尚道秋月城主、朴好仁さんとその一族郎党を土佐へ連れ帰って来たことに始まる町。朴さん達は元々浦戸城下に住みよりましたが、山内一豊さん入国後、現在の唐人町の所に移住させられ、豆腐を作って販売する特権を与えられたがです。ここに豆腐屋さんがずらりと何十軒も並びました。朝鮮で作りよった豆腐の技術をそのまんま利用したがですな。
朴好仁さんの子孫はその豆腐屋さんグループを束ねる役回りを代々務めよったみたいで、元禄の頃、「秋月」という姓を名乗ることを許されたとか。
で、この玉垣のお名前は唐人町の秋月さんですきに、おそらくは子孫の方ながぢゃあないでしょうかね。この大正10年の玉垣を見てみると、他にも秋月さんがいらっしゃいました。唐人町には、昭和の前期、第二次大戦の頃まで豆腐屋さんが立ち並んじょったそうで、古い方に尋ねると、この界隈に豆腐の香りが漂いよったお話を聞かせてくれます。