土佐久礼、八幡宮、佐竹義直さん、厄除石〔1535〕2007/06/29
2007年6月29日(金)晴れたり曇ったり、こぢゃんと蒸せます
今日も暑いですな。蒸せます。
昨日の夜、香川へ出張で行きまして、今日は高松から汽車で土佐久礼まで来ちょります。大野見村と合併した新中土佐町。その役場で会議に出ちょりまして、終了後八幡様にお参りして、街をブラブラしながら土佐久礼駅まで帰ってきました。久礼の町並みを見下ろす駅のホームで、このにっこりを書きよります。
久礼の八幡様、その大祭は、県下三大祭のひとつとしてこぢゃんと賑わいます。昔、ひまわり太郎も若い頃、来たことありますが、なかなかのモンですな。今日はその八幡宮にお参りしてきました。
この八幡様、嘉吉の頃(1440年代)に建立された、てな話もありますが、どうやらもっと昔から鎮座されちょったようで、嘉吉は再建やった、というのがホントみたいです。高知市内も凄まじい被害を受けた宝永の大地震の大津波で社殿も文書も流されてしもうて、正確な由緒は判らんなっちゅうみたいですね。
この八幡様には、戦国時代の久礼城主、佐竹義直さんの花押のある登り龍の剣が所蔵されちゅうとか。入り口の大鳥居脇の看板に書いちょりました。佐竹義直さん。こないだ、このにっこりに書きました佐竹親直さんと名前が似いちょりますな。親直さんは久礼から海岸沿いを西へ行った上ノ加江城主。調べてみたら、義直さんの甥ごさんでした。この八幡様に重要な役割を果たした久礼城主、佐竹義直さんの甥、親直さんに、長宗我部元親さんの娘が嫁ぎ、その息子が大阪の陣を逃れて仙台伊達家の重臣柴田家に仕えた後柴田外記と名乗り、伊達騒動で原田甲斐の手に掛かったというお話。歴史はぐるぐると廻って身近なものになっていくのでありました。
さて、この写真は、久礼八幡宮の本殿の脇に鎮座されちょります「厄除石」。なんでも、大正初期に近くの川のトロッコ軌道工事中に、土中から発見された石やそうです。真ん中に穴が空いちゅう不思議な石。で、この八幡様に寄進され、久礼八幡宮崇敬婦人会さんの世話で地元の建設会社米村組さんの篤志でここに祀られたがやそうです。この穴を潜り抜け、この向こうの大きなクスノキにお参りするがが厄除け。抜けてきました、ひまわり太郎。これ、なかなかギリギリの大きさですきに、メタボさんは難しそうですな。
そんなことを思いながらにっこりを書きよりましたら、このホームから見晴らす景色の中に「米村組」の大きな建物が見えました。