潮江天満宮、燈籠、西山覚次さん〔1524〕2007/06/18
2007年6月18日(月)曇っちょります
今日は曇り。ちくと蒸せますな。朝方、傘をさそうかさすまいか、悩ましい程度の小雨がパラつきよりました。
そんな小雨の潮江天満宮。ここに寄進奉献されちゅうたくさんの鳥居や燈籠、百度石には、高知の名士の方々の名前がどっしこ見受けられます。このにっこりでもびっしりご紹介してきました。今朝ご紹介するのは、手水のもうちょっと東側、鳥居の脇に鎮座しちゅう燈籠。この燈籠には「種崎町 西山覚次」と刻まれちょります。明治27年のご寄進。帰ってから、高知県人名事典で調べてみました、西山さん。
で、実業家、洋画家の西山閣二(本名覚次)さんの名前を人名事典で見ることができました。家業の呉服や雑貨の卸商を営む傍ら、ゴッホに感銘を受けて自己流で絵を始め、その後山脇信徳さんの指導を受けたりして研鑽を積みます。「新京橋や堀詰界隈を白昼堂々と画架を立てて絵筆をとる姿は当時有名。その画風は純粋そのもの、一見子供が描いたような天真さを有し、一筆一筆置くように描いていくタッチで、独特の画面を構成した。」と、その人名事典には紹介されちょります。この「当時」というのはいつの時代かを考えてみますと、この西山覚次さんは明治21年生まれで昭和45年に逝去されちょりますので、たぶん戦争前後。ここでハタと気が付くがですが、この燈籠がご寄進されたがは明治27年。計算が合わんですな。まさか6才で寄進はせんでしょうきに。もう一度人名事典をよく読むと、この洋画家の覚次さんは2代目。明治21年に、種崎町1丁目1番地、西山覚次さんの長男として生まれる、と書いちょりました。つまり、この燈籠を寄進されたのは、洋画家でもあった西山覚次さんの父、種崎町の豪商西山家の西山覚次さん、ということが判ります。