松山湯築城、河野水軍、一遍上人〔1262〕2006/09/29
2006年9月29日(金)松山は晴れぞなもし
今朝は松山。昨日、大阪から新幹線と特急しおかぜを乗り継いでやって来ました。穏やかな良い朝を迎えた松山市内です。
今朝たつくって来たのは道後界隈。市内中心部の北東に位置する温泉街道後。道後温泉の手前右手に、ご覧の公園があります。国史跡「湯築城跡」と看板に書かれちゅう公園。この小さな山に、中世の平山城「湯築城」があったのであります。お城の主は河野氏。あの、水軍で有名な河野氏の本拠がここにあったがですね。元々はもっと北の方に本拠を置いちょった河野氏ですが、南北朝の頃に河野通盛さんがここにお城を築き、拠点を移したそうです。
爾来戦国末期、秀吉の命を受けた小早川隆景さんに攻撃され、降伏、廃城となるまでの250年間、このお城に拠って河野氏は瀬戸内海に君臨しちょった訳です。
以前にも書きましたが、源平合戦のクライマックス、屋島の戦いの義経さんの勝利は、河野通信さんの水軍の働きに拠るところが大きかったと言われちょります。そんな昔から戦国末期まで、河野水軍は瀬戸内海の勇者でありつづけた訳ですな。
河野氏の最盛期は鎌倉時代後期、元寇で、河野通有さんが大活躍した後、と言われちょります。その少しだけ前に、河野家から一遍上人が出ちょります。鎌倉仏教を代表する時宗を創設したあの一遍上人は、河野水軍の一族やったという訳です。
一遍上人、踊り念仏で全国に熱狂的な信者を増やし、全国を遊行して教えを説いてまわったという人物で、生涯お寺を持たんかったそうです。全身全霊を込めた一回の念仏で人は仏になれる、という「一遍の念仏」は、庶民の魂を救ったのでありました。
「一遍聖絵」などに、上人の事跡などが描かれちょりますが、鎌倉時代の庶民の風俗やら思想やらを、その絵から窺い知ることができます。網野義彦先生の中世を描いた文章とかに、その頃の庶民を紹介する資料として「一遍聖絵」とかがぎっちり登場しちょります。
ところで、出張先からのにっこりは、セルフタイマーで自分も写ることが多いひまわり太郎ですが、こないだ、夜の鏡川を走りよって車止めの鎖に引っかかってコケた際、愛用のデジカメがぶっ飛びまして、どうやらセルフタイマー機能がイカレテしもうたようです。ご了承くださいね。