要法寺、筆山の話〔1157〕2006/06/16
2006年6月16日(金)晴れました
夏空の広がる高知市内ですが、昨日はまあ、よう降りましたですな。昨日のにっこりでご紹介した鏡川も、あの後、もうピットで道路が冠水するフタフタのところまで増水しちょりました。今朝も川はまだ濁っちょりますね。
さて、ここは、潮江天満宮参道から撮影した筆山。正面の大きな門、これは要法寺の正門。要法寺は、16世紀初頭、近江の国長浜で開基された日蓮宗のお寺やそうです。功名が辻でやりゆうように山内一豊さんが長浜城主になった際、山内家の菩提寺になり、掛川、土佐と、山内氏と一緒に移ってきたのであります。高知の城下町が建設された際に建立された場所は堺町の隣の要法寺町。
1687年の火事で全焼してしまい、現在のこの場所に再建されました。時代は下って明治15年、この場所で海南自由党結成集会が開かれたことは、2003年11月17日のにっこりでもご紹介しちょりますのでご参照を。
要法寺の後ろに聳えるのは筆山。潮江山と呼ばれた山。南北朝の争いの頃、後醍醐天皇の息子さん満良親王がやって来てこの潮江山に新田綿打入道や金沢左近将監らとともに布陣、大高坂山(現高知城の山)に陣取る土佐の南朝方の雄、大高坂松王丸を援護しました。が、結局、北朝勢に破れてしまいました。この山中でも激烈な戦闘が行われたことが、「西岡家文書」というのに書かれちゅうそうです。
戦国時代に入りますと、何度かご紹介したように、現土佐町森に本拠を置く森氏の城が築かれたりしました。
中腹に「筆山ユースホステル」というのがありましたが、現在はその建物は高知市が管理する「筆山文化会館」という施設になっちょりまして、バンドの練習や陶芸教室などが行われよります。ひまわり太郎も、以前、バンドの練習でよう行きよりました。管理人のおんちゃんが一人居るがですが、練習とかでヒトが来てない時はおんちゃんひとりぼっち。「誰か後ろにおるみたいな気配がしたき、振り返ってみたら手負いの鎧武者が立っちゅうがよ。ははは。」といった楽しい話を聞かせてくれたもんです。