50年前の夏休み〔8137〕2025/07/26

2025年7月26日(土)降ったり晴れたり
個人的な話ばかりで恐縮です。昨日、僕が小学生時代の夏休みのこと、書きました。そこで今日は中学校時代の夏休み。今から丁度半世紀、50年前の夏休みのお話しです。
その年、僕は中学校2年生でした。本当に忙しかった中学校2年生の夏。
僕は吹奏楽部の部員。うちの学校は中高一貫で、吹奏楽部は、高校吹奏楽部が一つだけ。中学生の僕たちも高校吹奏楽部の一員として登録されてました。吹奏楽コンクールでは、中学生が半数をしめているのに「高校A部門」にエントリー。そしてその頃は、高知県代表で四国大会へと出場したりしてたのでした。今では考えられんよね。
その年も高知県大会に勝って、四国大会出場は決めてました。ところが。高校の野球部がなんと8年振りに甲子園出場を決めてしまう。吹奏楽部は、1952年に野球部が甲子園に初出場した際に創部していて、野球の応援はとても重要なお仕事。なので、甲子園に行って応援するのは必須。まあ、ぼくらも嬉しかったけど。
吹奏楽の四国大会は夏休み最終盤、8月終わりにあるので、まあ、なんとかなるか、ということでコンクールと甲子園を両立させることになったのでした。
重要なのは、毎年夏休みに実施している夏合宿。夏休みに入ってすぐだったと思うけど、当時の鏡村の奥地にあった「鏡第二小学校」で実施された夏合宿。
それが、ここ。この、石積みの上に古い講堂。その向こうに汲み取り式の便所があり、その向こうの木造二階建ての校舎。今でも鮮明に覚えてます。講堂のこちらに、薪で炊くお風呂。そして炊事場。炊事場にもガスとかはなくて、全部薪でした。
基本、炊事当番の班が食事を作るので、僕ら間抜けな中学生男子は一生懸命薪で火を起こしたりしたことでした。
この小さな小川では、茶瓶で沸かした麦茶や差し入れのスイカを冷やしてましたねー。
当時。今では考えられない風習がいくつかありました。到着してすぐと、帰る前には、半日かけて大掃除。僕は便所掃除の当番で、山の学校の汚い汲み取り式便所を、素手で、磨きました。「舐めれるくらいピカピカに」というミッションでした。
廊下のはめ板とかも一枚一枚ピカピカに磨く。床も壁もピッカピカ。なので、学校には結構喜んでいただいていたようです。
合宿中は一日中練習。この学校の横には神社と鎮守の森があって、その木陰でパート練習をやり、夕方には講堂に集まって合奏。休みはほとんど無かったので、川に泳ぎに行ったりするOBの先輩が羨ましかったです。
高校を3月に卒業したばかりの先輩も、夜、僕らが寝静まってから先生と酒盛りをやってて、朝は二日酔いで起きてきたという、そんな時代。
一番しんどかったのは「正座」。夜、食事が終わった後、講堂の板の間で、部員全員が、部長の「瞑想!」という掛け声のもとに「正座」。目を瞑って瞑想し、なんと30分間、蚊に食われながら正座。動いたら先輩に叱られます。今では考えられんでしょうねー、この風習。誰が始めたんだろう。
僕が高校卒業後、まだ閉校していなかった鏡第二小学校で再度合宿があり、僕は車で来ました。その時には、講堂は取り壊されて新しい体育館に。
木造校舎はまだありました。
その後、閉校となり、今は公民館とかになっています。木造校舎は閉校と同時に取り壊され、あの新しかった体育館も、このように取り壊されてしまいました。
僕がここで合宿する数年前にも、先輩たちがここで合宿してます。その時は台風がやってきて、高知市への道路が通行止めになり、しばらくここに閉じ込められたとのこと。今ならニュースになるような事件やけど、当時はニュースにもならず、結構楽しい思い出になってたりするようです。
合宿を終え、甲子園へ。1回戦に勝ち、当時ほ高知へ帰らず甲子園近くの幼稚園で次の試合まで1週間ほど宿泊。2回戦に負けて高知へ帰り、そして、吹奏楽四国大会へ。もちろん全国出場はならず、高知へ帰ったのが8月27日頃だったと思います。
それから3日ほど休みがあって、新学期。
当時の吹奏楽部の部活、夏休みも毎日毎日朝から晩までずうっと練習で、お休みは、四国大会から帰って来た後の3日だけ、みたいなことやってました。今は昔。
半世紀前、ここにあったのは、今では考えられないような、夏休み。この水で冷やしたスイカ、おいしかったです。