土佐山田、山田郷、山田野地〔7671〕2024/04/16
2024年4月16日(火)雨
今日は終日雨の予報。ここは雨の、土佐山田。
このところ、鉄ネタが続いたので普通の世界に戻らなくっちゃ、と書いたのに、今朝もちょっとだけ少しだけの鉄ネタから入りますね。
向こうに見えるオレンジ色の屋根。あれは、土佐山田駅の陸橋の、屋根。つまりあそこがJR土讃線、土佐山田駅。で、この前の線路が新改駅へとつながる土讃線。その線路からこちらに、芝生のカーブ。この芝生は、このままカーブを続けていって、曙街道につながっています。その北にはヤンマーアグリ株式会社高知工場。農機具の工場が、あります。幾度か書いたことあるけど、このカーブは、土佐山田駅からヤンマーの工場への引き込み線の痕跡なのであります。以前はヤンマー農機製造株式会社で、セイレイ工業でもありました。
こないだの石灰専用線もそうやけど、かつての日本では、産業と鉄道は密接な関係にありました。私企業の工場に、国鉄からの引き込み線など当たり前。高度成長時代の日本は、鉄道輸送によって支えられていたのでありました。そんな痕跡が、今もきれいな芝生で残されているのは、嬉しい。恐らくはここに、農機具を乗せた貨車を引っ張るDF50のスルザーサウンドが響いていたことでありましょう。
土佐山田。香美市になるまでは土佐山田町。その中心部は、山田野地地域と呼ばれてました。明治22年から明治29年までは「山田野地村」という村であった場所。それは、この界隈一帯の山田郷の中の「野地」であったことからつけられた地名。更新世段丘である長岡台地の上の、水捌けが良すぎる農耕不適地だったので、野地。
引き込み線が写っている1960年代の航空写真を見ると、かつての山田野地の様子がわかります。駅の南側に広がる集落。この集落は、藩政期初期の、野中兼山先生による長岡台地新田開発によって生まれた町。それ以前の山田の中心地は、もっと東、この辺りだったのでした。山田氏本拠、山田城の城下町で、山田市町と呼ばれたのが、その界隈。
土讃線土佐山田駅ができたのは大正14年。須崎-土佐山田間が開通。以前書いたけど、大正末年、つまり鉄道が開通した頃合いに、山田に公認の競馬場がつくられました。恐らくは鉄道の開通を見越してのこと。昭和2年12月に3日間開催された山田競馬では、初日25000人、2日目はそれ以上、そして3日目には30000人の観客を集めたとのこと。土讃線を走る汽車はさぞかし混雑したことでしょうねー。今では想像もできんけど。
実は山田は、工業の町でした。昭和11年の生産総額は73万6220円。うち、農産は22万6683円なのに対し、工産は48万2039円。鉄道の引き込み線ができるほどの、工業の町であった土佐山田。
やけど。
上に書いた山田競馬では、昭和2年12月の3日間の売上を合計すると10万1000円だって。たった3日で。そんな時代もあった土佐山田。近年、その地盤の硬さと津波が来ない立地、そして曙街道開通による交通の便などから人気上昇中の、土佐山田。