父養寺の山は、ロマンの山〔7416〕2023/08/05
2023年8月5日(土)晴れ
台風の進路、いやな感じやねー。そこで曲がるか?と腹立たしい。けど、自然のやることには逆らえません。被害がないことを祈るばかり。
さて。昨日の高知新聞に「香南市の山城跡 寺院転用か 南北朝時代」という記事がありました。野市、父養寺(ぶようじ)の、戦国期の山城と思われていた城址が、実は南北朝期の城址でもある可能性が高まり、更に、その城は、平安後期から鎌倉時代にかけての寺院跡に建てられたのではないか、という発掘成果。今日、時折落ちてくる雨と、暑い暑い日差しの下、現地説明会が開催されたので、これはもう行くしかない、という訳で来てみたのでした。暑かったー。死ぬほど暑かった。
父養寺と言えばあじさい街道で有名やけど、その地名の由来は平安時代初期に遡ります。高潔な人格者ですぐれた人物であった紀夏井さんが、応天門の変に連座して土佐に流されてこの地に住み、晴耕雨読しながら薬草を採取して地域に貢献した、という話は以前に幾度か書いてます。土佐へ流される前、讃岐守に赴任した際には善政で住民に慕われまくり、その後に赴任した菅原道真さんが紀夏井さんと比較されてやりにくくて仕方なかった、という話も書いたねー。その紀夏井さんが、亡き父を弔うために建てたと言われるのが父養寺で、母を弔うために建てたのが母代寺。今はもう、そのお寺がどこにあったのかはわからない。母代寺はおそらくその辺だろう、という見当はついてるけど、父養寺というお寺さんの所在は、まったくわからない。
そんな父養寺の山に中世山城があった訳だ。鎌倉期、この南には深渕城があり、中原氏が地頭職に任ぜられてます。中原氏は後の香宗我部氏。南北朝の合戦のとき、北朝方の堅田(佐伯)経貞さんが深渕城の香宗我部氏と戦った、という文書があります。なので、同時期にここにあったお城は、香宗我部氏に関連するお城だったんでしょうかね。
いや、城址に登ってみたらわかるけど、ここはすごい。物部川、深渕の城や川港を見下ろせるだけでなく、遥かに香長平野から太平洋まで見晴るかす、すごい場所だ。ここに南北朝期、お城がつくられたのは、むべなるかな。
で、今回の発掘では、そのお城の遺構の下から、別の遺構が出て来たのでした。この写真の丸い川石の列や、土師器が集まって出土した状況などから、なんらかの祭祀に関係しているのではないか、と想像できる訳だ。お寺などの宗教施設に城郭ができる、というのは石山本願寺と大阪城の例を見るまでもなくよくあることで、ひょっとしたら、平安時代から、この眺望豊かな山上に、なんらかのお寺さんがあったかも知れない、という話ですな。なるほど。ロマンだ。
ロマンついでに妄想すれば、平安初期に建てられた「父養寺」「母代寺」と、この山にあったらしい寺院とが関係あったらすごいね。応天門の変と言えば866年。1150年の時空を超えて、紀夏井さんの思いが遺されていたのだとすると、すごい。まだまだわからないことだらけやけど、この山城の遺構には、たくさんのロマンが溢れていました。
いやー、蒸せて蒸せて、下着まで汗でびっしょり。しかし、楽しゅうございました。