遍路道ですらなかったかも知れない逢坂峠〔7368〕2023/06/18
2023年6月18日(日)薄曇り
逢坂峠。今は県道384号線で、高知市一宮と南国市岡豊の間の峠。この峠、大坂峠とも書くし、大坂越えとも呼ばれた峠。現在の逢坂峠はこんなにも広い道路が走るひらけた感じの峠やけど、僕が子供の頃は、北山山地と蒲原山に挟まれた狭隘な峠でした。でもそんな狭隘な峠が、高知と外界を結ぶ幹線、国道32号線の峠だったのでした。とても交通量の多い、重要な国道の峠。それが逢坂峠だった。
国道が南のバイパスに移り、高速道路もできたので、今は広いけど幹線道路ではなくなりました。
その逢坂峠が国道になったのは大正9年のこと。それまではと言うと、四国霊場八十八ヶ所の29番国分寺から30番善楽寺へ向かう遍路道過ぎなかったと言いますきに、寂しい寂しい峠だったと推察されます。
寂しい遍路道の峠から、狭隘な国道の峠になり、広い県道の峠になった、逢坂峠。大坂峠。大坂越え。
小学生の頃、なにかのサイクリング行事で、小学生の団体で、自転車でこの坂を登って逢坂峠を越えたこと、覚えてます。まだ国道だったあの頃。自動車やトラックが爆走していた狭い国道を、小学生が団体で自転車で。今では考えられんよね。
ところで逢坂峠で思い出すのは、四万十町と四万十市の境目の逢坂トンネル。現在のトンネルは3代目で、初代の煉瓦造りの逢坂隧道は、幾度かこのにっこりでも触れました。上林暁さんの小説の舞台にもなった、逢坂隧道。
あと、忘れてはならんのが、京都から大津へと向かう途中の「逢坂の関」。今から8年前、京都に泊まってたときに、早朝思い立って京都から大津まで走りました。そのときに走りながら越えたのが「逢坂の関」。
これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
は、蝉丸の和歌やけど、僕が覚えている数少ない百人一首の歌でした。そんな和歌に歌われた、そしてとても重要だったのが「逢坂の関」。
「逢坂の関」、上林暁が毎日通った逢坂隧道。それに比べたら、圧倒的に人通りの少なかった、遍路道に過ぎなかったこの逢坂峠が、大正9年に国道になり、そして今は県道。
いや、今、重要なことに気付きました。
明治維新後の廃仏毀釈で、一宮の善楽寺さんは、一旦廃されてしまいました。で、明治8年に再興された洞ヶ島の安楽寺さんが、30番札所となる。国分寺から安楽寺へのルートは、普通に考えると、布師田を通る街道ルートだ。善楽寺さんが再興されたのは昭和5年なので、明治維新から大正9年までは、この峠、遍路道ですらなかったことに、なる。
地元の人が少し通るだけの、寂しい寂しい峠だった。のかも、知れませんね。この変哲もない峠には、そんな歴史がありました。