馬場孤蝶の高知〔7356〕2023/06/06
2023年6月6日(火)小雨
昨日、「高知共立学校」のこと、書きました。高知県人にもあまり知られていない「高知共立学校」。明治15年に開学して、明治26年には一旦休校となっているので、実質11年しか授業をしていなかった「高知共立学校」。現在の土佐女子中高の原流のひとつになる訳やけど、「高知共立学校」として授業してたのは、たったの11年間。
で、その11年の中の2年間、我らが馬場辰猪の19歳年下の弟にして、明治大正、昭和初期の日本文学に大きな功績を残した馬場孤蝶が、その「高知共立学校」で英語を教えたりしていたのでした。明治学院を卒業したのが明治24年(22歳)で、明治学院の同級生だった島崎藤村が高知へ孤蝶を訪ねて来たのが明治26年。なるほど。「高知共立学校」が休校になる年だ。
島崎藤村に触発され、教職をやめて上京したという馬場孤蝶。やけど、この時系列を見るに、勤めていた学校が休校になる、という事情もあったのかも知れんね。いや、たぶん、そうだ。島崎藤村の来高と、勤務校の休校が重なり、上京の決意を後押しした、というのが真相かも知れません。
「共立学校」で思い出すのは、東京の「共立学校」。そう。現在の開成高校の前身。若き日の馬場孤蝶、明治学院に入学する前の馬場孤蝶は、その「共立学校」で英語を学んでます。で、高知へ帰り「高知共立学校」で英語を教える。もちろん「共立学校」と「高知共立学校」は、まったく関係ない学校やと思うけど、不思議な符合があったのでした。
で、明治26年に上京した馬場孤蝶は、東京で活躍することになり、たくさんの明治大正の文人と交わることになる訳で、再び高知の地を踏んだのは大正11年夏。泊まったのは、潮江橋北詰の少し西の宿。で、県下あちこちにでかけてますね。宴会もびっしり。その頃の模様を「帰郷日記」という本に残してくれてて、当時の高知の様子がよくわかる貴重な資料になってます。
で、以前にも書いたけど、ある日、堀川上流で屋形船に乗り込んで種崎で宴会。対岸の長浜からも芸者さんを呼んでの大宴会を楽しみ、
「九時頃解散。田中、山﨑と共に大屋形にて帰る。闇の水上の趣甚だ快し。五台山沖あたりにて月出づ。十一時頃新地より電車に乗り帰寓。」
なんという美しい風景。羨ましい風景。
稲荷新地に屋形船で帰ってきて、夜11時に新地から「新地線」の電車に乗り、宿へ帰ったとのこと。写真は、今朝の稲荷新地。今は新地の面影もなく、巨大堤防が海を隠しているけど、当時はここに船が着き、電車の「新地線」の停留所もあって賑わっていた。高知は、水辺を楽しむ街だったのだ。今は昔。