田村弥生人の思い〔7115〕2022/10/08
2022年10月8日(土)晴れ
今朝は、会社の近所、高知空港沿いの「やよい広場」から朝焼けを撮影してきました。きれいやねー。今から2000年前にここで暮らした弥生人も、こんな朝焼けを眺めたのでありましょう。お日様信仰、太陽信仰は必然だったと思う。
そして、今は樹々に遮られて見えんけど、ここから見ると、朝日は、いずれも標高30mくらいの上岡山と室岡山の間から昇ったと思われます。田村で暮らす弥生人が毎朝見ていた風景。
お馴染みの、地理院地図の地形分類図。この、物部川の流路に挟まれた自然堤防上に展開された田村の集落は、その竪穴住居の数などから、日本でも有数の規模であったのではないか、とも言われてます。一説には1000人規模の集落だったとも言われる、田村。
その集落のピークは紀元前1世紀。そして、紀元2世紀頃に急速に衰退していったとされてます。その理由は、ウィキには、「魏志倭人伝」に出てくる「倭国大乱」の時代に集落が縮小に向かったと書かれてます。それはそうながやけど、何故、「倭国」が「大乱」の時代を迎え、そしてその時代に何故田村が衰退したのかは、書かれてません。
このところのにっこりをお読みの方は、僕が何を書きたいのか、もうお判りでありましょう。そう。気候。
近年の気候分析学の進歩で、1世紀、2世紀頃の日本列島は急速に寒冷化し、降水量が増えていたことがわかってます。今一度この地形分類図を見てみよう。この田村という土地は、物部川の扇状地、自然堤防上に、あります。水田には適していたでしょう。水もふんだんにあるし。海にも近いので、海の幸も食卓に上っていたでしょうか。
しかし弱点は、水害。この物部川が氾濫すると、田んぼはもちろん、集落も一気に押し流されたりしていたのではないだろうか。上岡山や室岡山は、文字通り命山として、田村集落の人々の避難タワーとして機能したでしょう。
度重なる洪水が、田村の人々を他所へ移住させていったんだと思います。
そして、巨大津波。
紀元前1世紀に集落はピークを迎えた、と書いたけど、その頃に洪水が増え始め、そしてそこに、南海地震の巨大津波が襲った、かも知れない。かの岡村名誉教授の研究で、今から2000年~2050年前、つまりキリストが生まれた頃、東日本大震災を超える規模の地震と津波が土佐を襲ったことがわかってきてます。その規模の津波であれば、栄華を誇った田村の集落も大きな被害を受けたのではないか。その後集落は復興するけど、徐々に衰退していき、弥生時代の終焉とともに忽然と姿を消す、田村集落。
この場所で、この朝焼けと同じ風景を眺めた弥生人は、地球の気候や自然災害の中で、何を思い、何を信じて暮らしたのか。そんなこんなを妄想する、田村の朝。