新聞連載と高知新聞〔7085〕2022/09/08

2022年9月8日(木)晴れ
昨日、新聞記者が、その特技、知識を活かして生み出す記事は面白い、という話、書きました。高知新聞では、幾度も触れてきたこの連載が、なかなか秀逸。「美しき座標ー平民社を巡る人々」。今はその第6部が連載中で、多くの女性にスポットライトが当てられています。
平民社の中心人物の一人が我らが幸徳秋水で、多くの高知出身社が関わっていたのは間違いないけど、この連載では高知出身であるとかに関係なく、たくさんの魅力的な人物が登場してきます。
あの、明治の空気の中で、現代では当たり前の権利解放を目指す人々。しかし、平民新聞にあつまる人々の雰囲気は、今日のこの記事にもあるように、明るくしぶとい。弾圧は強まるばかりで、平民新聞は発行停止となり、印刷機械も没収という状況になる中で迎えた1905年正月。
世間は日露戦争での旅順陥落に湧きかえり、「日本はすごい」ムード一色の中で迎えた元旦に、幸徳秋水と並んで平民社を引っ張る堺利彦が、こんな日記を書いてます。
「平民社には松飾りも無い。国旗も無い。」「表戸はかくのごとく殺風景であったが、それでも新年は裏口からやって来た。奥の四畳半には朝日がはなやかにさしこんで、屠蘇もあれば雑煮もある、すいせんのはちもある。」夜は公園を散歩し、かるた取りを楽しんだ「静かでにぎやかな元日だった。」
日露非戦論を唯一唱えた新聞が、平民新聞。それが廃刊に追い込まれ、世間は旅順陥落に浮かれるなかでの、こんな雰囲気の平民社。
この時期、マスコミも戦勝と国威発揚を煽り、「日本すごい」の雰囲気が列島を席巻していた。その空気が、後の「日比谷焼き討ち事件」を起こしてしまうことにつながったのは、現代から見たら常識。しかしその当時、その圧倒的空気感の中で、冷静に真摯に行動した人たちも居たのでした。
戦争当事者で言えば、児玉源太郎などの指導者層が、引き際を冷静に心得ていたことが大きかったと言われています。戦争としてはベストのタイミングでの終結であり、ポーツマス条約も、見事な収め方だったと今では言われてます。が、当時は、「この勢いでもっと攻め込め」といった声が溢れ、ポーツマス条約を屈辱的外交だといった世論のなかで、日比谷焼き討ち事件が発生した。
ときの雰囲気に煽られた大衆というのは、往々にして冷静な判断ができなくなる、というのは、今も昔も変わっていないんだ、と、思う。新聞が売れるのは、そして視聴率が上がるのは、どうしても「勇ましい」記事だから、あるとき、歯止めが効かんなってしまうという歴史。
そうそう。昨日書いた赤松貞雄さんも、空中戦で、強がって敵編隊の先頭にかかったり、勢いに乗っての深追いを強く戒めていたと言います。端の弱い奴から叩いていくのが、いいと。戦とはそういうもの。冷静に戦い、引き際を心得る。人は経験に学び、そして歴史に学ばなければならない。
「美しき座標」の話でした。今の第6部には、明治のあの空気の中で懸命に頑張った女性が多く登場します。今では考えられないような差別感情の中で、明るく元気に頑張る女性たち。高知新聞って、こういう連載記事が書けるところが流石だと思う。こういう記事が、さすが、土陽新聞の血を引いているだけのことはある、と思わせてくれます。