日章の飛行場と赤松さん〔7084〕2022/09/07
2022年9月7日(水)薄曇り
昨日、時事通信車高知支局の記者さんとお会いしまして、諸々、お話しました。Kさんという若い記者さんですが、その方、歴史愛好家でした。と申しますか、大学院まで歴史を学んだという、いわゆる「ホンク」ですね。
そのKさんが、先月、こんな記事を書いておられました。ネットの記事なので、僕は迂闊にも気付いてませんでした。読んでみると、とてもいい記事。高知空港にまつわる、素敵な話が書かれた記事で、これは広く知ってもらいたい、と思い、早速今朝、高知空港の写真を撮ってきて、このにっこりに書いております。
この記事には、かの、太平洋戦争の戦闘機乗りで「撃墜王」とも称された赤松貞雄中尉が、終戦後高知へ帰郷してからの活躍が描かれています。赤松貞雄さんは、赤岡出身。海南中学校卒業後に海兵団に入団し、飛行機乗りへの道を歩んで行ったのでした。
ウィキには、こんなにも詳しく書かれている人物なんですね。操縦練習性時代の指導教官は、あの、「源田サーカス」で有名な源田実。で、「源田サーカス」と言われた源田実分隊の一員でもあった、赤松さん。そして、訓練を積み、海軍屈指の技術と実績を持つ戦闘機乗りになったのでした。1910年生まれなので、終戦時は35歳。飛び抜けた技術を持っており、実戦でも終戦まで活躍しつつ、後進の指導に当たったと書かれています。
終戦後、高知へ戻ってサツマイモなどを作る生活を送っていた、赤松さん。昭和27年に、使われていなかった高知海軍航空隊の飛行場、日章飛行場跡地を農地にする意見書が、県議会で採択されたのを機に、民間飛行場の有用性を確信する赤松さんは、「西日本軽飛行機協会」を設立したのでした。日章飛行場は、米軍に接収された後、使われてなかったんですね。
「西日本軽飛行機協会」は、赤松さんが家を売り払い、私財を投げ打って、県内の旧日本軍パイロットらとともに立ち上げた組織だそう。そして、日章飛行場で、飛行機の運行を続けていた昭和29年、県議会は、飛行場を残す意見書を採択する運びになったのでした。
ウィキ見ると、赤松さん、なかなか豪快な人物であったこと、わかります。そして合理的思考ができる人。日章飛行場で、その辺で遊んでいる子供を気軽に飛行機に乗せて楽しんだりしてたことなど、この記事に書かれていて、そんな風景を想像するだに、なんか、楽しい。
飛行機が、人間の身体の延長線上にあった時代と申しましょうか。セキュリティも自己責任。徐々にセキュリティ、コンプライアンスが厳しくなるけどね。この動画の3分10秒くらいから、僕らが子供の頃から親しんだ高知空港、皆が「日章の飛行場」と呼んでいた空港の風景動画が見れるけど、今よりは随分甘々なセキュリティで、飛行機がまだまだ身近。僕が大学を卒業する頃にジェット化され、新しい空港ビルができて、飛行機と僕らの距離が開いてしまいました。
この記事。歴史好きの記者が、その特技を活かして生み出す記事って、面白いと思います。高知新聞でも、そんな記者さんが活躍してますね。世の中、なかなか、楽しい。