ここに橋があった風景と、歴史のif〔7043〕2022/07/28
2022年7月28日(木)晴れ
日本には沖積平野、扇状地が多く存在し、かつては、河川を渡ることが、交通の大きな障害となっていたのはご承知の通り。土佐でも、その海岸部を東西に貫く街道は、苦労して川を渡っていたのでした。
物部川で主要街道が渡っていた場所は深渕界隈でした。明治期のこの地図見ると、野市側が深渕で、立田側が上咥内。街道沿いには集落があり、物部川には渡し船。
そして、もう少し南の、介良から田村を通る街道は、上岡山のところに渡し船があって、上岡山の南を通っておりました。
更にその南。里改田から田村の南、久枝を通る街道があって、その街道は、ここで物部川を渡っていたのでした。その街道にはその後、橋が架けられ、1960年代の航空写真には見事に写っているのであります。今朝は、その橋があった場所に来て、撮影してます。ここ。ここ。スマホに表示しているのは、1960年代の地図ね。青丸のところで、撮影。
その橋は沈下橋だったのでしょうか。たぶんそうやね。こんな場所に架かる橋に欄干はマギッてしまうからね。
そして、物部川河口の物部川大橋が架けられて、その橋は役割を終えたのでした。
今はもう痕跡もなにも無いけど、この、川に向かっている道、突然川に突き当たって終わっている道が、ここに橋があったことを教えてくれるのでしょうか。
今昔マップで見比べてみると、かつての街道や町のありようが、今とは全然違うこと、わかる。新しい道はそれまで田んぼだった場所にまっすぐ通され、そして、その道に沿って新しい町ができてゆく。
空港ができる、ということは、その地域にとってはかなり大きな出来事。現在の滑走路の下には、かつての久枝の集落や命山が眠っていることが、この地図でわかります。
もし、ここに海軍航空隊がつくられていなかったら。ここに高知空港ができることは無かったんだろうか。それはもう、考えても無駄な、歴史のif。
ひとつ言えるのは、海軍航空隊ができたことにより、海軍へ納入する牛乳が必要となり、この界隈で酪農が営まれるようになった、ということ。つまり、海軍航空隊がここに来なければ、この界隈が県下有数の酪農地帯になることはなく、高知牛乳食品が日章に工場を建てることもなかった、のかも知れません。
いや、これも考えても無駄な、歴史のif。
現実は、海軍航空隊が設置され、戦後に民間飛行場となり、日章地区は酪農地帯となって、高知牛乳食品が南国工場を建設し、高知牛乳はひまわり乳業となって、今年、創業100周年を迎えたのでした。