創業にいたるまで〔6977〕2022/05/23
2022年5月23日(月)晴れ!
良いお天気の月曜日。暑い1日になりそう。
夜明けの本社棟前、創業者吉澤八洲夫翁胸像前を、撮影しました。この方が、今から100年前に弊社を創業した、吉澤八洲夫翁。
今朝は、この八洲夫翁の生い立ちについて、少しだけ。
八洲夫翁は、明治30年1月8日、田野村で生まれました。父、吉澤文治は、田野村役場の職員。文治さんは明治22年に田野村「助役」となり、明治27年から31年までは田野村「書記」、明治31年から大正2年の亡くなる直前まで再び「助役」を務めてますので、八洲夫さんが生まれたときは「書記」だったようです。
田野小学校を卒業した八洲夫少年は、高知市立商業学校へと進学。高知市九反田の親類の家に下宿して、商業学校に通いました。高知商業学校は、横山又吉という土佐では有名な個性強き教育者によって明治31年に創立され、大正6年まで自ら校長となり、多くの人材を高知県内外に送り出しています。
有名なのは鈴木商店でしょう。
皆さんご承知の、三菱三井に肩を並べるほどの商社になり、その後破綻したものの、現在に至るまでの多くの企業の源流となった鈴木商店。その大番頭、金子直吉は土佐出身で、横山又吉先生に頼んで、高知商業学校から優秀な人材をどんどんと送り出してもらっていたのは有名な話。鈴木商店は高知商業出身の「土佐派」と、神戸高商出身の「高商」派が争い、切磋琢磨しておりました。
八洲夫翁の話でした。
高知商業学校時代の八洲夫少年は、特待生になるほど成績優秀だったと言います。横山又吉先生には目にかけてもらっていたけど、卒業後は、鈴木商店とは違う道で、又吉先生と関わることになったのでした。
成績優秀につき、高等商業学校への進学も視野に入れていた八洲夫さんでしたが、高知商業学校卒業目前に父文治さんが病に倒れ、進学を断念して、日本興業銀行に就職。そして、どこかは不明なのですが、県外で勤務していたと言います。
そして。
大正6年、恩師横山又吉先生が校長を辞して、設立したばかりの「高知商業銀行」の頭取になると、横山先生の招きで、高知商業銀行に入行したのでした。しかし。須崎支店長として勤務している時、その「高知商業銀行」は、大阪の相場師石井定七の破綻に巻き込まれる。
その際、銀行員としての実績を上げていた八洲夫には、海南銀行への誘いや、高知銀行(現四国銀行)への誘いもあったようですが、ここで真剣に自分の将来について考えます。
当時、同居していた妹の笑子さんが病弱で、その健康の為に山羊を飼育してミルクを飲ませていたりしていました。自身も体が弱かったことも関係していたのかも知れません。八洲夫は、健康飲料産業としての乳業に着目し、洋風かする食生活の中での将来性を見通して、吉澤牧場を創業することとしたのでした。
当初は、居住していた窪川に家族を残し、一人高知市へ戻って吉澤牧場を開設。山羊、乳牛の飼育、乳の処理・販売を始めました。それが、大正11年(1922年)5月20日と記録されています。
それから100年。
若き日の吉澤八洲夫青年が、どのように過ごし、どのような思いから吉澤牧場を設立するに至ったのかは、本人に聞いてみないとわからないことばかり。
しかし、健康に対する想いには、強いものがありました。その思いが100年引き継がれ、紡がれ、皆様に愛され支えられて、今を迎えています。
さあ。月曜日。気を引き締めて、頑張ろう。心地よい青空の下、1週間が始まりました。