命山と避難タワー〔6920〕2022/03/27
2022年3月27日(日)晴れ
晴れてますが、まだ雲は多くて、風が強い日曜日。
ここは南国市下島。この南が久枝の海岸で、「久枝北津波避難タワー」の上に登って撮影してみました。北東方面。スマホに表示してあるのは「古地図散歩」で、明治期の地図。青い丸が現在地、避難タワーのある場所。
地理院地図で言えば、ここ。そう。ここは太平洋戦争末期に海軍航空隊によって飛行場として整備され、直角二等辺三角形になった場所。その三角形の中につくられた避難タワー。
そして、海軍航空隊の飛行場を建設するに当たって、この世から消されてしまった山が「室岡山」。地元では「命山」と呼ばれ、この明治期の地図にもちゃんと「命山」と書かれています。地図の右端。見えますでしょうか。
この写真の、右の方。高知空港の滑走路の真ん中に存在したのが「命山」でした。この目の前に標高28.2mの山があった風景を想像してみよう。太古の昔、この界隈で暮らした弥生人も毎朝眺めた命山。
最近、過去の細密な気候の変化がわかるようになり、気候が歴史に与えた影響の研究が進んでいます。で、弥生時代後期に高地性集落が増えたことの意味の解釈が、少し変わってきました。以前行ったことのあるバーガ森北斜面遺跡のような、高地性集落ね。今までは、人口増加とともに集落同士の争いが増え、その防衛機能の為に高地性集落が形成された、みたいな解釈やったけど、気象を分析すると、違った風景が見えてきたのでした。つまり、弥生後期は、湿潤で雨が多かったということがわかってきたんですね。雨が多くて、洪水が多発する。それにより、河川近くの水の便の良い土地が洪水に悩まされるようになり、高地性集落へと移動していった、という解釈。
弥生時代が終わると、ここにあった田村の集落は無くなってしまいます。それは、度重なる洪水が原因だったのかも知れません。
洪水の際、この界隈の人たちが逃げたのが、そこにあった「命山」。弥生人も、度々逃げ上がったと思われる「命山」。
気候の変化で、逃げ上る頻度も多くなったでしょうか。そして、津波。この界隈の南海地震津波の痕跡調べて、弥生時代の津波の状況わからんでしょうかね。
気候。地震。そういった地球の営みに対応して、人々は暮らしてきました。そして軍隊の事情で姿を消した「命山」。その代わり、このような避難タワーができました。
このスマホの「命山」と目の前の風景が、いろんなことを教えてくれます。