高知刑務所の中心〔6908〕2022/03/15
2022年3月15日(火)晴れ!
暑いくらいの陽気。もう、すっかり春爛漫。こないだまで冷やかったのが嘘みたい。いや、暑い。
さて。高知新聞に連載されている「美しき座標」は、とても興味深い内容で、面白く読ませて頂いております。で、その中に、監獄のことが再々登場します。明治期の監獄がどんなものだったのかが、臨場感豊かに表現されてますね。とても勉強になります。
そこで、高知刑務所のこと調べてみました。
こんなページがあるんですねー。その名も「刑務所.net」。全国の刑務所の情報が、詳しく紹介されてて面白い。これ見ると、明治4年、小高坂村に「囚獄」と「監倉」が置かれたのに始まり、すぐに、現在の城西公園の場所に「徒刑所」」が開設。それから昭和51年まで、「懲役場」「高知県監獄署」「高知県監獄本署」「高知監獄」「高知刑務所」と名称を変えながら、その場所に存在したのでした。僕らが子供の頃は、高い塀で囲まれたアンタッチャブルな場所でしたねー。
現在の高知刑務所は、布師田。「刑務所.net」 によりますれば、収容人員は553人。処遇指標Bとあるので、「犯罪傾向が進んでいる者」が収容されてるんですね。ウィキには、B級でもJB級とYB級で、26歳未満の暴力団構成員や再犯者を収容、と書いてございます。なるほど。
昭和51年に移転するまでの刑務所は、こんな感じでした。網走監獄とかでもお馴染みの、放射状に建物が並ぶスタイルね。真ん中で、受刑者の管理がしやすいということなんでしょうね。知らんけど。
今日は、スマホアプリの「古地図散歩」で、かつての放射状建物があった中心地に来て、撮影してみました。そう。この場所。アプリの青丸の場所が、かつての監獄、刑務所の中心だったのであります。そう思うと、ちと、感慨深いものがありますねー。運動場の北東隅。
明治期、言論の自由が封殺されていた時代の政治犯は、どこに収監されてたんでしょうかね。高知で捕まったら、ここに収監されてのかどうなのかは、わかりません。
現在の日本では、明治のような理不尽な政治犯の収監は、行われなくなってます。が、世界に眼を向けると、どうなんでしょうか。権力者というものは、手っ取り早く権力を維持したがるものですきんね。力づくで。日本もかつてはそうだった、ということが、「美しき座標」でよくわかります。
昔の刑務所跡地で、平和と自由のありがたさをかみしめながら、春の日差しを浴びています。