立川越え、1100年の歴史〔6839〕2022/01/05
2022年1月5日(水)晴れ
冬の盛りが続きます。冬は冬らしいのが、いい。
今日は少し用事があって、四国山地を越えてます。早朝、会社でひと仕事済ませてから、車で。時間があまりないので、早朝やけど珍しく高速道路を走ってます。高知自動車道。
この高知自動車道のルートは、江戸時代、参勤交代にも使われた立川越えのルートに沿っています。高速道路の開通により、土佐と外界を結ぶメインルートの地位を奪還した、という訳やね。昔の街道は、高低差よりは最短距離であることが重視されてて、それが現代の高速道路のつくりかた思想に通じるものがあるみたいです。
明治になり、人力車や大八車などが通るようになると、それまであまり気にしてなかった高低差が道の重要なファクターとなり、川沿いとかに新しい道路が切り拓かれ、それがメインルートとなったのはご承知の通り。それが国道32号線となり、高知自動車道ができるまで、土佐と外界をつなぐメインルートであり続けてきたという、歴史。
でもその歴史は高々100年ばかしのこと。土佐と外界を結ぶメインルートは、平安遷都直後の795年(延暦15年)から明治まで1100年の間、この立川越えでありつづけてきて、100年だけその地位を吉野川沿いに譲り、また、再び奪還したと言えると思います。
ここは馬立パーキングエリア。最近改装された馬立P.A.。馬立という地名が、街道の重要な駅であったことを物語るよね。ここから南へ、四国山地を笹ヶ峰で越えたところが立川。近世には番所も置かれた重要な、駅。
上に書いたように、立川が街道のルートとなり駅が置かれたのが、795年のこと。「日本後紀」に、「勅、南海道駅路迂遠、使令難通、因廃旧路通新道」とあるそうで、つまり天皇の発令により、南海道ルートの変更が行われた、ということになります。
伊予の11駅、土左の12駅などが廃されて、新たに土左に吾椅、舟川の2駅が設けられたのでした。つまりそれまでの南海道は、伊予の海岸からぐるりと四国の西を回って土左まで、というとんでもないルートだったりします。すごいね。最果ての国、土左。
さて。吾椅は、本山やけど、舟川とはなんぞや。
舟川。平安中期に編纂された延喜式には「土佐国駅馬頭駅 吾椅 丹治川各五疋」とあるので、どうやら「舟川」は「丹治川」のこと、らしいです。誤記なのかどうなのかわからんけど、当時に於いてはよくあること。つまり舟川は丹治川で、それが中世に立川になり、今に至っておる訳です。たぶん読み方は一貫して「たじかわ」。近年、これを「たちかわ」と呼ぶ人が増えておるんではないか、という考察は、こないだやりました。
早朝の立川越え。今は高速道路でアッという間に通り過ぎる立川越え。かつてはあの、雪を冠った山を越えてた訳で、土佐から出るのも大変だったでしょうねー。