句碑と逃散〔6663〕2021/07/13
2021年7月13日(火)晴れ
高知新聞に「書家と碑文」という連載があります。県下の、あちこちにある碑。その碑文を、その文字を書いた書家とともに紹介するコーナー。で、今朝、紹介されてたのが、東洋町にある「山頭火行乞碑」。浅学にして知らんかったです。そんな句碑があること。
山頭火が四国を行乞したのは最晩年の頃。甲浦を通りかかったのは昭和14年11月4日。やっと見つけた宿で、句を詠んでますね。
波音おだやかな夢のふるさと
わがいのちおはるもよろし
歩くほかない秋の雨ふりつのる
その14日後、11月18日。高知を抜けた山頭火は、松山へ向かう途中で池川町に寄り、そこで有名な区を詠んでます。
山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ
池川では野宿しているけど、行乞成績もよくて、気に入ってますねー。
そんな訳で、今朝は池川。現在は仁淀川町やけど、池川町。
昨夜、なんとか高知へ帰り付きました。エラい雷雨やったみたいっすね。全然知らんかったけど。で、今朝は早朝出社して諸々仕事を済ませ、今度は松山へ向かってます。早朝に会社を出れたので、池川から久万の方へと抜ける国道494号線を走るべく、池川へ。で、山頭火の句碑を見て行こう、と思った訳です。
安居川に土居川が流れ込むところの、川縁に、あります。句碑に刻まれている句は、これ。
野宿
わが手わが足 われに あたたかく眠る
その句の下に、
山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ
そして池川でのことを書いた日記の文面。いい、句碑です。
この句碑のすぐ上に、「天明逃散集合の地」という説明板があります。以前にも紹介したように、ここは、天明7年(1787年)、有名な「逃散」が、この地でありました。折からの飢饉。それより深刻だったのが、紙の自由売買の禁止。この地は、焼畑と紙漉きが主要産業で、多くの紙漉き人とそれに関わる人が暮らしておりました。ところが天明5年、藩は、その平紙の買い上げ問屋を京屋常助1軒としてしまう。競争のなくなった常助は、安く買い叩く。買い叩く。
それに飢饉の年貢負担が積み重なってなんともならんなり、逃散。国境を越え、伊予の久万、大宝寺に逃げ込んだのでした。結局、大宝寺の調停で、土佐藩は逃散した人たちの要求を呑み、逃散は成功した、という「池川紙一揆」。
この河原に集まったのは、男子601人。
ちなみに、現在の池川地域の推定人口は1400人。明治24年には3900人居たのに、こんなに減ってしまいました。天明の頃、逃散に集まった男子だけで601人。生活は大変やったけど、多くの人が暮らしていた、池川地区。
ちなみに。現在の人口動態がそのまま続くと、2040年、池川地区の人口は760人。老若男女、合わせてね。逃散も、できん。
そうはならんようにしたい。池川は、山頭火ではないけど、ほんとうに良いところ。こういう場所で、人々が幸せに暮らしていける世の中って、難しいんでしょうかね。山頭火さんに聞いてみたい。