弘化台はどこだ〔6445〕2020/12/07
2020年12月7日(月)晴れ
朝、3時半過ぎの弘化台。弘化台の、この十時のところから丸山台方面を撮影しました。昭和42年に、九反田から中央卸売市場が移転してきて、弘化台は今のようになりましたが、元々、弘化年間に砲台が築かれたから弘化台と言いますね。
弘化年間というと1845年から1848年。まだ、ペリーが浦賀へやって来るより5年以上も前。その頃、全国でも、各所に砲台のようなものが築かれたりしてるけど、たぶんかなり脆弱なものではあったと思われます。この浦戸湾の奥に、どのような理由で弘化年間に砲台が築かれたのかは、知りません。
今朝のテーマは、その弘化台の場所。
そもそも、弘化台という砲台があった場所を中心に大規模な埋め立てが行われ、その埋め立て島を弘化台と呼ぶようになった、と、僕もみんなも認識してると思います。ところが、それだと腑に落ちんことがあるので、今朝はそのこと、書きます。
地理院地図で、現在の航空写真はこれ。そして1960年代、埋め立てられたばかりの航空写真が、これ。埋め立て前の航空写真ってのは、単写真しかないので、これを高解像度で見て、弘化台界隈を拡大してみてください。
目印になるのは、現在も存在する丸山台と、玄武島。玄武島ってのは、現在の弘化台から少し東へ伸びてる岩礁とミロクさんの砲台のこと。
そしてそもそもの弘化台という砲台は、丸山台と玄武島の中間点の少し西にある島。これは、昭和4年の「高知市街地図」とかを見ても、その位置の四角い島に「弘化台」と書かれていることで、証明できます。丸山台と玄武島を結ぶ直線の、中間点少し西が、弘化台。
ここで今一度、現在の航空写真を見てみよう。1960年代の航空写真でも見てみよう。
僕には、そもそもの弘化台は、この写真の眼前、海の中にあるとしか見えんのだけれどもいかがだろうか。少なくとも、その弘化台という砲台の一部は、この目の前の海に存在したと思うのですが、いかがだろうか。
埋立地に存在した島の名称を、埋立地に利用するのであれば、どちらかと言えば「玄武島」の方が相応しいのではないか、と思ったりするのでありました。だって、そもそもの弘化台の場所に現在の弘化台があるようには見えんので。
さて。真相やいかに。
この埋立地に「弘化台」という名称をつけることになった経緯とか、誰か知らんでしょうかね。今、僕らが市場へ行くときには、「弘化台へ行ってくる」と言うてるけど、ひょっとしたら「玄武島へ行ってくる」と言うことになった可能性があるのかないのか知らんけど、少なくとも高知のお街で酔っぱろうてタクシーに乗り、運転手さんに「弘化台へやって」と言うたまま寝込んでしまい、気がついたら工科大に連れていかれてたみたいな悲劇は起こらんかったと思うのでした。
どうでもいいですか?