民権婆さん「楠瀬喜多」と土佐の民権運動〔640〕2005/01/15
2005年1月15日(土)雨
今日の高知県地方、朝から冷たい雨。
ここは、高知市筆山(ひつざん)の南西麓。潮江中学校の近くの登り口でございます。ここには、ご覧の様に、有名な人物のお墓がたくさん所在しちょります。右手の標柱には、坂本龍馬の父、坂本八平さんの墓所が近いことが書かれちょりますが、今日のお話は左手の案内板の「楠瀬喜多(くすのせきた)」さんについてです。ここから500m程登ったところに、そのお墓がございます。
楠瀬喜多さんは、土佐では「民権ばあさん」として知られた人物。
立志社の演説会によく顔を出して聴講していたそうですが、明治11年、県庁に質問書を提出しました。4年前に夫を亡くしていた喜多さんは、戸主として、区会選挙に投票しようとして「婦人には参政権はない」として追い返されました。「戸主として納税の義務を果たしているのに選挙権がないのはおかしい。戸主である以上、女も男も同権ではないか」というのが、その質問書の主旨でした。このことから、女性民権家の象徴みたいに言われちゅうがですが、当時のマスコミや民権家からの扱いは「雑喉場の女丈夫」「唐人町の母夜叉」「海南水滸の大立者」「中々一物ある婦人」などのからかいモード。女であるということで、非常に軽く見られ、変人扱いされちょったのであります。当時の民権運動の本質は、女性を非常に低く見下し、その自由や権利については一顧だにしない男本位のものでありました。植木枝盛を除いて、この問題を真剣に考えた民権家はいなかったとも言われちょります。
後に中島信行(土佐の民権家)と結婚した女性民権家岸田俊子さんは、「世の自由を愛し民権を重んずる諸君に問わん。君等は社会の改良を欲したまえり、人間の進歩を謀りたまえり、しかして何とてこの男女同権の説のみに至りては守旧頑固の党に結合なしたまうぞ。」と、強烈に皮肉っております。
土佐は偉人を輩出した、と軽薄なお国自慢ばかりしよってもいけませんな。反省反省。
尚、この楠瀬喜多さんのお墓をつくるお金を出したのは、あの右翼の巨魁頭山満(とうやまみつる)。当初民権家だった頭山満が明治12年立志社へやって来た際、彼女の家に居候しちょった縁だそうです。後年、頭山が「マダイキテヲルカ」という電報を打つと、「イキスギデコマル」という洒落た返事があったという有名な話も残されちょります。