布師田、ぢばさん、水害、疫病〔6398〕2020/10/21
2020年10月21日(水)晴れ
秋深し。隣はなにを、する人ぞ。涼しいというより、朝晩は寒いくらいになってきました。
今日は、ぢばさんセンターのある所へ来てます。ここには、高知県産業振興センターとか中小企業団体中央会とか、高知県食品外販組合とかも、あります。そして隣は工業技術センター。
高知市布師田の、田んぼの中にこれらが建設されたのはいつ頃やったでしょうか。僕がまだ若い頃。
1984年に「黒潮博覧会」というのが開催され、その後、できました。
地場産業の新興のため、という想いを込めて「ぢばさんセンター」。「ち」に点々、ということろが、ミソですな。
西側には機械工業団地も整備されて、高知のひとつの産業拠点みたいな位置付けになってます。でもここ、国分川の北岸で、遊水地帯みたいな場所。土地条件図を見れば一目瞭然で、かつては、海。1998年の98豪雨では、完全に水没しました。このページでその時の航空写真が見れます。
ぢばさんセンターや機械工業団地ができる前、1970年代の航空写真は、これ。広い広い良田が広がってますねー。もちろん市街化調整区域で、今も、特定のもの以外を建てることはできないエリア。なので、現在も、ぢばさんセンター、工業技術センター、工業団地の周囲は田んぼに囲まれていて、素敵な場所になってます。この西側に高知東部自動車道のインターができようとしてるから、また、風景は変わってゆきますが。
地名で言うと「布師田」。でも布師田の集落は、この北東の山裾に、あります。地名でわかるように古くから栄えた土地。藩政期には、高知の城下に一番近い宿場町としても栄えております。江戸で言えば品川とか板橋みたいなもの。参勤交代で帰ってきた行列は、布師田で威儀を正し、服装や装備を整えて、城下入りをした、と言います。そして品川と同じように、遊郭のようなものも並んでいたという、布師田。今は昔。痕跡のかけらも残ってない。
布師田という地名の語源は、葛城襲津彦命の裔である布師氏が住んだから、とか、布師の給田があったから、とか諸説あるそう。角川の「高知県地名大辞典」に書いてます。同じ角川によると、藩政期になって寛文五年、「桂井素庵筆記」という日記に、その頃各地に病が流行したため「布師田村には祭に踊・角力あり」と書かれてるそうです。病気が流行ると祭に踊、角力。なるほど。疫病退散で、いろんなことをして神に祈った訳だ。現代だと、疫病が流行るとイベントは中止なので、逆っすね。
もし、寛文の流行病がウィルス性のものだったら、そういったお祭り、踊り、相撲で一層病気が拡散したんではないでしょうかねー。
昔から大雨が降り、洪水になり、それなりの知恵と努力でそんな自然と対峙してきた、土佐の人。
昔から疫病の流行があり、その度に神仏に祈ってきた、土佐の人。
時代は変わって、対処の仕方は変わっても、そして科学技術が進歩しても、やはり自然災害や疫病の流行は止まない。それが、地球に生きる、ということ。