大雨と、汽車〔6293〕2020/07/08
20207月8日(水)降ったりやんだり
新聞とかには「治水の課題」などの文字が踊る。これからもっと温暖化が進めば、もっともっと線状降水帯みたいなのが発生しやすくなり、こんな気候が当たり前になっていくと思います。それに対抗して巨額の費用をかけた治水工事が行われ、どんどん治水が行われ・・・
水害が発生するのは、治水対策に問題があるからだ、ということになっていくんでしょうかね。それだとイタチごっこだと、僕は思う。思います。温暖化という根本原因をなんとかせん限りは。
とはいえ、「線状降水帯」という名称ではなかったけど、高知でも、過去、同じ場所に豪雨が降り続くことによる災害は幾度か発生してて、いずれも「集中豪雨」ということで、その災害と共に僕らの記憶に残っています。例えば繁藤災害の集中豪雨。
昭和47年7月5日なので、丁度今頃の、梅雨前線へ南からの湿った空気が流れ込むことによる集中豪雨だったこと、わかります。24時間雨量が742mm。温暖化の現今では、あり得る数字ですが、当時としては驚くような雨量で、繁藤駅北側の山の斜面が崩壊した災害。最初の小さな崩落で消防隊員1名が土砂に埋まってしまい、その救出作業にあたった消防団員など、60名が亡くなったという史上稀に見る大災害でした。
その際、大雨の影響で繁藤駅に停車中の列車も土砂に流され、客車の中の高校生なども犠牲になったのではなかったかと記憶してます。
その列車は、機関車が客車を引っ張るタイプの各駅停車。高知発高松行き。
JR四国によると、今日午前中の土讃線では、特急を中心にかなりの列車が運休になってます。近年、気象予報に基づいてそういう事前の対策、リスク管理が行われるようになったけど、繁藤災害当時はそうでもありませんでした。その列車は、降り頻る雨の中、いつになるとも知れない運行再開を待っていたのでした。
引っ張っていた機関車はDF50。四国では主力として運用されてたディーゼル機関車。ディーゼル機関車というと、DF10とかの凸型のやつを想像する方も多いと思うけど、DF50は現在の機関車と同じような箱形の機関車でした。今はもう、運用されていない機関車。
当時の各駅停車は、DF50などの機関車が、エンジンの付いてない客車を引っ張るものが主力でした。まだワンマンカーもなかった、時代。乗客も多かった、あの時代。現在の土讃線各駅停車は、この写真みたいなのが主力。1000形でしょうか。機関車が引っ張るのではない、いわゆる「気動車」1000形。
繁藤災害当時使用されてた客車は、焦げ茶色の箱形客車。前席ボックスシートで、急行のボックスシートみたいにクッションが効いてなくて、背中は板そのものみたいなのでした。
エンジン付いてないから、停車中は静かなもの。シーンっとした車内を裸電球のセピア色の灯りが照らす。エアコンなんかはもちろん無いから、夏は窓を開けて走ってました。コロナでもないのに。最後尾の連結部分は開放されてて、僕は、そこに座って汽車の後ろに飛んでゆく線路の風景をいつまでも眺めているような、そんな子供だった。
大雨の話でした。
繁藤災害では、鉄道は23日間で復旧しています。路盤が崩壊したこと考えれば、結構早いと思う。鉄道は重要な足、という位置付けもあったんだろうと思います。
あの山の斜面は、今、リニア新幹線静岡県工区でも話題になっている「破砕帯」が露出する岩盤構造だったと言います。最初の小規模崩壊で、上部の破砕帯にたまった水が出口を失い貯留され、大規模崩落につながった、と、今では考えられてます。後になって、わかったこと。
まだまだ世の中、知らないこと、わかってないことだらけ。
今できることは、自分の命は自分で守る、という行動。そして、それから、治水を考える。でも一番大切なのは、地球の気候。今までの気候の上に成り立ってきた文明であり、文化であるならば、今までの気候が維持できていくことが、文明、社会活動をやっていく上での前提になる訳で、そのためには、今までの気候が維持できていくような社会活動を行っていくことが、そもそもの前提になる訳だから、それができるような社会にしていく必要が、あります。時間がかかっても。いや、もう、そんなに時間はないのかも知れません。防災インフラが、気候の変動に追いついていってない。