高知城西ノ口門と森小弁〔6279〕2020/06/24
2020年6月24日(水)晴れ
良いお天気。梅雨とは思えない。
今朝は、用事があって市内中心部。ここは高知城の西側。ここにあった門はお城にとっては西門で、西ノ口門とか搦手門とか言われてたらしい。その土台部分の石垣は、今も健在。
この大高坂山には、蛇紋岩や角閃石の、古い古い地層が露出していることは、幾度も書いてきたから知ってますよね。
地理院地図のこの地質図で、この紫色の場所をクリックすると、「古生代カンブリア紀フロンギアン世~シルル紀、苦鉄質片麻岩・角閃石・・・・」と書いてるけど、この石垣にもどうやらその苦鉄質片麻岩が使われてるみたい。そう。それが蛇紋岩。
石を見ながら高知城周辺をたつくってみるのも、楽しいと思う。なかなか貴重な石、ありますもの。楽しくないですか?
それでは別の話。
この向こうに見えるのは弓道場「弘徳館」。高校生の頃、県体の応援で行ったこと、あります。今は高そねに立派な県立弓道場ができてて、大きな大会はそっちでやってるみたい。強いですきんね、弓道の高知県勢。強かったら予算もつくでしょう。知らんけど。
で、その弘徳館の場所。ここに説明板があって「関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易となり、山内家にお預けとなった毛利壱岐守吉成が住んでいた場所である」と書かれてます。
毛利吉成は、秀吉の古参の家臣。つまり、山内一豊にとっては先輩にして上司だった訳で、そんな縁で、この場所に住むことになりました。こんな一等地にね。さすが、元上司。
毛利という姓。元は森さんだったと、ウィキにはあります。
で、ここに住んだ毛利吉成の子孫はどうなったのでしょうか。調べてないから知らんけど、その遥か子孫に森小弁がいると、これもウィキに書いちゃあります。
いつしか、毛利から森に戻したのかどうなのか。
そうそう。森小弁はご存知ですよね。
土佐出身で、明治期、ミクロネシアに移住して、大成功した人物。南太平洋は、政治的にもかなりの紆余曲折があり、その大きな変化の中を生き抜いた森小弁は、ある部族の酋長の娘と結婚。その子孫は今もたくさん住んでて、時折来日、来高して親交深めたりしてますよね。
冒険ダン吉のモデルとも言われるけど、それは定かではありません。
それより「酋長の娘」だ。日本軍が南太平洋侵攻を進めてた時代で、ぞれこそエキゾチックなイメージが、日本人の間でブームになってた時代。「酋長の娘」は、まぎれもなく森小弁がモデル。
♪わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人
この歌詞。今だとかなり問題、あります。
でも当時、大ヒットしました。だからかどうか、今も森小弁のこと知ってる人、多い。
でもこの場所に、そのご先祖さまが、一豊の庇護のもとに暮らしてたことは、あまり知られてません。
毛利吉成さんに、300年後の子孫がミクロネシアで活躍し、その100年後には小弁の3000人以上の子孫が活躍していること、教えてあげたい。