明治の堤防と昭和の堤防と令和の堤防〔6257〕2020/06/02
2020年6月2日(火)晴れ
梅雨入りあるある。四国地方、一昨日の日曜日に梅雨入りしたと言うてました。梅雨入りしたら雨が降らない、という梅雨入りあるある。今回もそんな感じで、今朝はきれいな青空が広がっている、高知県地方。
日の出も早くなりました。4時半になると、もう、明るんできてます。写真は3時半の、稲荷新地。さすがにこの時間は、まだ、真っ暗。世の中は寝静まってるけど、この稲荷新地の海岸通りは、弘化台の市場へ行き来する車が行き交います。
こないだ、Facebookに、土佐史談会の今井さんが、この稲荷新地界隈の写真が載った絵葉書など、紹介されてました。いやー、すごいのお持ちです、今井さん。その絵葉書に写っていたのは、この海岸通りにあった得月楼本店や、丸山台にあった陽楽園などなど。得月楼の前には元々の名前「陽暉楼」が書かれた看板も。
お店の前に6mくらいの道があり、道の下は海。所々に雁木があって、舟が着岸できるしつらえ。道の上には着物姿の女性や少女がたむろし、中の島の先っぽには材木が並べられている風景。
その新地の海岸通りは、おそらく今の海岸通り。北側の下知は0メートル地帯なので、海岸通りが堤防になっていたのでありましょう。
今朝の写真。撮影したのはこの場所。西の方角を向いて撮影してます。左端は中の島の先っぽ。こっから西が堀川で、向こうに鏡川大橋やトップワン四国、ホテル日航高知旭ロイヤル様が見えてます。
右手に海岸通り。向こうの明るい界隈に、得月楼がありました。得月楼の向こうには、路面電車「新地線」の停留所。以前も書いたけど、結構遅くまで電車は動いており、ここは不夜城のように栄えた高知の歓楽街だった。
僕が子供のころ、台風10号による高潮被害が高知の低地を襲う。そして浦戸湾の湾岸には、たくさんの目隠し堤防が構築されました。この左にも少し写ってます。風光明美な稲荷新地は、その時点で、海も何も見えなくなってしまいました。
そして東日本大震災。津波の想定が変わり、各所で堤防の補修や改修が進み、ここにも大きな堤防ができました。
災害と防災。これはもう、風景との折り合いがとても悪くて、こんなことになってしまいました。完成間近の、大きな堤防。
この写真には、明治初期の新地の堤防、昭和の、10号台風後に構築された目隠し堤防、そして完成間近の津波対策堤防が、写っています。
今井さんの絵葉書には、ここが歓楽街であった夢のような風景が描き出されています。以前、地元の横山さんが昔を回想してテレビで喋ってたのを思い出しました。
この海岸に取り付けられている鈴をチリンチリン鳴らすと、この南の小島「丸山台」から小舟がやってきて、丸山台の料亭へ乗せていってくれた話。
在る意味、とても贅沢な時間が、ここにありました。この巨大堤防とのコントラスト。