二ノ丸の石垣と三ノ丸の石垣と長宗我部の石垣〔6142〕2020/02/08
2020年2月8日(土)晴れ
今日は少しのんびりしてます。頭の疲れを取って、英気を養う。
昨日の冷たい雨もあがり、見事に晴れた高知。雨上がりの風景は、とくに美しいね。
来週が龍馬マラソンということで、朝から多くのランナー、見かけました。とは言え1週間前。もう、そんなにハードな練習しちゃダメ。ゆっくりと調整してる感じですねー。
僕はと言えば、鏡川沿いをのったり走って新月橋。そこから井口町、山手町へ。小高坂山の山裾をぐるりと周り、越前町を通って高知城。
梅の段の梅、この気温なので満開かな、と思って行ってみたけど、まだまだでした。
梅の段から二ノ丸へ駆け上がり、そして三ノ丸へ駆け下る。
この写真は三ノ丸。
この大高坂山、中世には、大高坂氏が本拠とした山。そこに長宗我部元親さんが岡豊から移ってきたのが天正15年(1587年)。でも、こないだ読んだ「土佐の山城」によりますれば、発掘調査の結果、天正13年頃には既に大高坂山を本拠としてたという説が、有力。
どちらにしても、ここに、石垣づくりのお城を築いたのは元親さん。
土佐の国で初めての、石垣に囲まれたお城。当時の最先端。地山の上に築かれてた砦のような城から、石垣が廻らされた堅固な城へ。軍事的な要請から、急激に技術が進歩していた戦国時代。そんな時代に取り残されないよう、土佐という辺境の地にありながら最新の技術をいち早く取り入れた元親という人物は、やはり只者ではない。
で、その後本拠を浦戸城に移した際、浦戸城にも石垣を築いたのでありました。桂浜荘の工事で壊されてしまった、その時代の貴重な石垣。
この三ノ丸の石垣修築工事に伴う発掘調査で、この三ノ丸石垣から数メートル内側から、長宗我部時代の石垣が出てきました。やはりチャートが主体で、一部に砂岩や石灰岩。これはもう、この城全部に共通する石垣材質の特徴。だって、そのチャートは、高知では当たり前に一番産出する固い石だから。
長宗我部時代の石垣は、山内時代の石垣に比べて、石材が小振り。最初は小さめの石で、つくってたんですね。
向こうの天守の下の石垣や、二ノ丸の石垣が完成したのは慶長8年(1603年)。
そして、この三ノ丸の石垣が完成したのは、二代藩主忠義公の時代で慶長16年(1611年)。
三ノ丸の石垣の方が新しいのに、石材、二ノ丸よりちょっと小振りに見えます。これ、どうやら、浦戸城の石垣を運んできて積んだから、と言われてますね。嘘か本当か知らんけど。
どっちも、チャート中心。そして石灰岩と、砂岩。
三ノ丸から二ノ丸へ上がっていく所にある、鉄門の石垣は、打ち込みはぎになってて、左岸。こんな野面積み、つまり自然石の形状そのままの積み方ではなくて、石と石の間がビシっと直線になって隙間がないのが打ち込みはぎ、切れ込みはぎ。
どうやら、そこに打ち込みはぎのビシっとした石垣が積まれたのは、18世紀のことらしい。積まれてるのは砂岩。チャートでは無理なんでしょうね、打ち込みはぎは。
と、まあ、石の材質、組み方などを見ながらお城を楽しむと、時間が経つのを忘れてしまいますよね。しまいませんか?ああ面白い。
時代時代の、技術。地域の特徴、産出する素材を活かしながら、最新の技術を模索し、取り入れていく。僕らが想像するよりずっと、戦国の切磋琢磨はすごかったのである。
そんな時代の英雄であった元親は、情報収集や最新技術導入などに秀でた、千里の駒でありました。