前浜の繁栄〔6112〕2020/01/09
2020年1月9日(木)晴れ
昨日の朝に比べたら10℃くらい気温が下がって冷やい。いや、冷ようは、ない。昨日の朝6時が17℃で、今朝6時が7℃。この季節のこの時間の気温にすれば、まだまだ温い日が続きます。幾度も書くけど、この冬、まだ一度も氷点下になってない高知市、南国市。
会社から南へいくと、物部川の河口で、太平洋。
紀貫之の古代から、細川守護代の中世の頃、物部の河口は、現在の前浜、切戸のところにあったと思われます。
ここは前浜。前浜の浜堤の北側。この十字の場所。色別標高図で見るとこう。浜堤がこの東で切れてるの、わかります。
土地条件図、そして治水地形分類図で見たら、物部の河口がそこにあったこと、わかるし、河口から入って西側の潟湖が天然の良港になってたことも、うなずけると思います。
ここは古代から中世にかけて、良港であった。この前浜橋から見た風景は、たしかに、ここに良港があったことを想像するに十分な景色ではありますね。
田村の地に、室町時代、守護代館がおかれてたのはご承知の通り。土佐の中心が、ここにあった。守護代細川氏がそこに守護代館を置いたのは、その南に物資の集積地である良港と、市街が発展していたから、と言われてます。
で、近年の発掘調査の成果などもあって、前浜、浜改田から里改田にかけて形成された市街は、中世土佐にあって、有数の規模であったらしいこと、わかってきてます。
そう。この浜堤とその北側には、土佐有数の街場がありました。
この港に集積されてた物資は様々あるけど、どうやら木材関係が多かったらしい。もちろん、物部川の上流域は広大な木材の産地であり、物部の川流しなどでここまで木竹を運び、潟湖ラグーンに集積していたという話。いや、文献によると、物部流域だけではなくて、仁淀川、新庄川や、遠く幡多地方の木材も、ここに集積されていたとの話も、あります。
その木竹は、もちろん、土佐国内だけではなくて畿内方面へも運ばれてた訳で、そういった物資集積と都市、港湾機能に目をつけた細川氏が、田村に守護代の居館を築いていた、という構図なんでしょうか。
戦国期から近世になると、守護代館も廃れ、ここにあった港湾都市も衰退していきました。港湾都市が衰退したのは、細川家の力が衰えた、というよりは、国分川流域から高知平野、浦戸湾を利用した水運が中心になっていったからだと思います。
ここが物資集積港としての機能を失っていったのは何故か。
それには、物部川の流路や水量、土砂の堆積などが関係していたのかも、知れません。ラグーンが湿地帯になり、船溜りとしての役目を果たせなくなる。河口部に土砂が堆積して、船の出入りが難しくなる。そんな感じでしょうか。
変わって、浦戸。浦戸湾。浦戸湾へ流れ込む河川。そういった場所が物資の集積地となり、土佐の中心として発展していったのか。
この前浜の風景を見ていると、社会や政治は、地形、地勢によって決まってくる、ということがわかってくる気がします。そして地形、地勢は、気候、大きく言えば地球の環境によって決まってくる訳だ。
このとんでもない暖冬を過ごしながら、この前浜の風景を見ながら、僕らが住む地域の、高知の、日本の、地球の未来が激変していく未来を、予想する。