渋谷のスクランブル交差点、市商の塀〔6101〕2019/12/29
2019年12月29日(日)薄曇り
あと、今日入れて3日か。はやいもんです。弘化台では、今日から大晦日まで「市場年末売り出し」やってますし、今日の日曜市は大変な人でしょうね。
随分と年末の風景も変わってきたけど、昔ほどの年末のとんでもない喧騒はないけど、それでもやっぱし年末は年末だ。昔、大晦日の大橋通りを、母の買い物に付き合ったことを思い出す。小学校低学年の頃。大橋通りは、輪抜けさまのような人出で、お母ちゃんの背中を見ながら、はぐれないように必死で突いて行った記憶。すさまじい人の波でした。
すさまじい人の波、と言えば渋谷のスクランブル交差点。ハローウィンの騒動で有名な、あの、渋谷駅ハチ公口の北側、駅から道玄坂やセンター街へ行くところの交差点は、人の波がすごいっすよね。まさしく人の波。若者、多いし。僕らはもう、あの中で生活するのは無理かも知れない。
こないだから読んでる、我らが馬場孤蝶先生の随筆「明治の東京」に、面白い描写がでてきます。
大正末年か昭和の初め頃、明治34年頃の渋谷界隈を思い出しながら書いた文章。以下転載。
上田敏君と一緒に、宮益坂を下りて、与謝野を訪うたことを記憶するが、坂は両側が生垣になっていて、僅かに五、六間ぐらいな路であったような気がする。坂の下の踏み切りを越えると、両側は水田であったように思う。全く広重などの絵にありそうな地景であった。道玄坂へとあがって行くと、坂がいわばおでこの額のように高くなっているあたりの左の方に狭い横町があって、それへと曲って、与謝野君の家に達するのであった。
以上転載。
これに登場する上田敏は、あの、ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの ためいきの・・・」とか、ブッセの「山のあなたの空遠く 幸い住むと 人の言ふ・・・」とかの名翻訳で有名な、上田敏。与謝野は、言わずと知れた与謝野鉄幹。いや、ここでは与謝野夫婦のことを言うてるのかも知れません。
で。地図を見てみよう。宮益坂を降りてきて、踏み切りを渡って、道玄坂の手前。まさしく、スクランブル交差点のあたりが「両側は水田」だったのだ。
この追想をしている時点で、すでに渋谷はかなりの変貌を遂げてた訳だけども、今の渋谷を見たら孤蝶先生も上田敏先生も、そしてこの界隈に住んでた与謝野夫婦も、腰抜かすでしょうな。
さて。
今日は忙しい。とっても忙しいので、早朝起き出して走ってきました。15kmくらい。ここは桟橋通の、県民体育館の東側。ここには、昭和4年から昭和45年まで、市商がありました。高知商業学校、そして高知商業高校。その市商の痕跡が、取り壊されてる、という情報があったので、行ってみました。2013年に撮影したときは、こんな風景。この塀は、戦禍もくぐりぬけてきた市商の、塀なんですね。これが、戦争遺跡もろとも撤去されてたのであります。全部、取り壊すんでしょうかね。一部だけでもなんとか残してもらいたかった。焼夷弾の跡も。
ああ。昭和は遠くなりにけり。ここに市商があったことも、忘れられていくんでしょうね。渋谷に田んぼがあり、春の小川が流れてたことが忘れられ、痕跡も残っていないように。
渋谷の圧倒的な変わり様もそうですが、世の中は、こうやって変わりながらつながってゆくのであります。
さあ。今年もあと3日。頑張って仕事仕事!