広島平和記念公園の思想〔6036〕2019/10/25
2019年10月25日(金)小雨
昨日から広島。仕事です。
八丁堀の北に泊まってました。今朝はホテルを5時にスタート、広島市内を走ってきました。小雨が降ったり止んだりの、静かな未明の広島市内。
旧広島市民球場跡地は、来年、「ひろしま はなのわ 2020」というなんかの博覧会の会場になるみたいで、工事が行われてます。
そして、原爆ドームから、平和記念公園へ。久々の、平和記念公園。まだ暗い時間帯ですが、散歩やウォーキングの方々が訪れている、広島のシンボル、平和記念公園。
この中洲は、かつて、広島を代表するような繁華街だったと言います。その頃の航空写真は、残念ながら見当たらない。のかな、と思ったら、ありました。この昭和14年撮影の単写真。高解像度表示でご覧ください。原爆ドームの場所には、被爆前の広島物産陳列館が、はっきりと写ってますね。そして平和記念公園の界隈は、ぎっしりと立ち並ぶ、家。家。
戦後間も無く、米軍によって撮影されたのが、この写真。原爆で破壊し尽くされた、広島。
この広島を、復興、平和のシンボルにしようという願いが、平和記念公園になりました。どんな公園にするのか。そのコンペが行われたのは、昭和24年のこと。戦後、4年目。
いろんなプランがありました。でも、その中で、原爆ドームをシンボルとして公園と一体化したプランは、ひとつだけだった。36才だった丹下健三が提出した論文「広島市平和記念公園及び記念館競技設計等選図案」。
まだ、当時は、原爆ドームを取り壊してはどうか、といった議論があった時代。しかし丹下健三は、あの原爆ドームこそ、二度と原爆を使用しないという、未来に向かっての強烈なメッセージになる、と信じて、そのプランを出したのであった。
そして、後世の僕らにとって幸いなことに、採用される。
よく、テレビとかで見ることが多い、このアングルの風景。
原爆死没者慰霊碑と、その向こうに見える原爆ドーム。記念館から慰霊碑、原爆ドームを直線で結ぶ、この設計は、丹下健三によるものでした。なんとも、すごい。
丹下健三が、このプランの中で宣言した言葉。
「平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならないものである。平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創り出してゆくものである。この広島の平和を記念するための施設も与えられた平和を観念的に記念するためのものではなく平和を創り出すという建設的な意味をもつものでなけらばならない。」
平和を「創り出す」という積極的な意思が、すごい。
今日のこの話は、このページを発見したことから始まりました。改めて、丹下健三の凄みを知った、朝。
夜明け前、まだ暗い平和記念公園。慰霊碑には、絶えることなく人々が訪れ、祈りをささげてゆきます。