第六小学校の2階の廊下〔5966〕2019/08/16
2019年8月16日(金)晴れ
台風は過ぎ去り、暑い日差しの照りつける夏の日が戻ってきました。
今日のにっこりひまわりは、今朝、自転車での出勤途上に撮影した田んぼの風景をもとに、蘖と穭の話など、書いてアップしてました。してたんです。
しかし、今日の午前中。偶然こんな写真を撮る機会があり、こんな機会はこれからもなかなか無いのではないか、と思い至って、差し替えをすることとしたのであります。そう。にっこり差し替え。めったにしないのですが、したことない訳では、ありません。
今から13年前、バイコヌールへ行った時に、差し替えた記憶があります。他にもあったっけ。忘れました。
ともかく、今日書いた蘖と穭の話は、また改めてすることとして、今日は、第六小学校。
そう。今日の午前中、用事があって、高知市立第六小学校へお邪魔しておったのであります。校長室で打ち合わせがあったのですが、校長先生に頼んで、校舎の写真を撮影させて頂いたのでした。
高知市立第六小学校。
明治44年(1911年)4月、高知市第六尋常小学校として、創立。だから今年で108年。第一と第二は新堀小学校になり、今は、はりまや橋小学校。第三は追手前小学校になって、同じく今は、はりまや橋小学校。第五尋常小学校は、下知尋常小学校と合併して昭和小学校になってるので、創立からそのままの姿で残るナンバースクールは、第四小学校と、ここ第六小学校という訳です。
しかも。
第六小学校は、戦争前に第六国民学校になる訳だけど、焼けなかったのである。
戦争で、特に、昭和20年7月4日の高知大空襲で、高知市の市街地は焼け野原になり、第三国民学校も、そして高知市役所も全焼してしまいました。しかし、第六国民学校は、西便所一棟だけ焼失したものの、他の建物は、無事、残りました。昭和9年に建てられた高知市内唯一の鉄筋コンクリート3階建の建築物は、もし、高知市役所が罹災した場合は臨時市役所庁舎として利用されることになってたそうです。
そのまさかの想定が現実になったのが、昭和20年7月の高知大空襲。
第六国民学校の子供達は、校舎が全焼した第三国民学校(追手前小学校)の子供達とともに、第四国民学校で合同授業を受けることとなった。
そして、まだ完成して11年目の、空襲でも焼けなかった立派な鉄筋コンクリート3階建の第六の校舎は、臨時市役所庁舎となり、空襲の罹災者救援から戦後の復興都市計画に至る業務を担う行政の中心となったのでありました。
写真は、その校舎2階の廊下。
昭和のはじめ頃の建築物は、どれもそうだけど、実にお洒落。この天井が高くてロマネスクで、美しくどっしりしたフォルムは、今の校舎建築とかには見られない貴重なものだと思います。
市役所仮庁舎の時代は、昭和22年4月末まで続きました。
ここで、この建物の部屋で、「昭和の百々越前」と言われた清水土木課長が辣腕を振るい、今の広い電車通りを含めた戦後都市計画を推進した訳です。
その、まさにその建物が、今もこうして残っているという奇跡。
こないだ、僕よりかなり年上の、第六小学校を卒業された方が、第六は水洗便所だった、と自慢してたけども、さもありなん。
僕が学んだ追手前小学校校舎は、戦後復興で建てられた木造2階建で、それはそれなりに趣きはあったけど、こんなにお洒落ではありませんでした。汲み取り便所だったし。
建てられてから85年。様々な高知の歴史をくぐり抜けてきた、この美しい校舎が、今も、子供たちを育み、送り出しているという、奇跡。