玉川上水RUN2〔5938〕2019/07/19
2019年7月19日(金)曇り
今朝も東京。昨日は業界の重要会合が九段の乳業会館でございまして、懇親会を神楽坂でやってました。神楽坂で飲むなんて、何十年振りでしょうかね。飯田橋から神楽坂を上り、台地を越えるとそこは早稲田。そうだったそうだった。
今朝も5時に新宿を起きだして、玉川上水RUN。昨日は遡上したので、今朝は昨日と同じ箒銀杏のところから反対へ、東へ走って玉川上水の終点まで走ってみました。
昨日も書いたけど、1653年につくられた玉川上水は、羽村取水堰から四谷大木戸までの43km。で、四谷大木戸の水番所から江戸市中へ、地下に敷設された木樋や石樋によって運ばれてたのでありました。当時の地球上を見渡してみても、その規模と構造はかなりのものだったと思われますね。そういった土木技術が日本で一気に進展したのは戦国時代と思ってます。
各地の大名が争う中で、敵よりも少しでも有利に戦が遂行できるよう、必死になって考えた。そして様々な土木技術、治水技術などなどが進展したんだと、思う。徳川の世になり、天下泰平の中で、その軍事用に開発された技術がインフラ構築に役立てられてった、という歴史ね。
それは土佐でも、同じ。高知の城下町建設。治水。野中兼山の巨大灌漑事業による農地開発。港湾整備。ぜんぶ、戦国期に確立していった土木技術の賜物でありましょうね。
玉川上水の話です。
都庁の南の、箒銀杏のところからJR線路の手前までは、玉川上水跡地、つながってます。そしてそこで、痕跡は消え失せる。調べてみると、かつての玉川上水は、甲州街道の南を流れ、新宿御苑の北辺を、ここまで流れてたようで、あります。
今の航空写真では全然わからんけど、戦後すぐの焼跡の航空写真だと、山手線の線路のところまで玉川上水が流れてるのが、わかります。たぶん、鉄道が敷設される際に、埋められてしまったんだろうと思いました。
四谷大木戸の交差点の近くに、このような大きな碑。「玉川上水水板番所跡」と書かれた説明板が立ってます。右側の大きな石碑は「水道碑記」。明治28年に建てられた、玉川上水開削の由来を記したという記念碑。
僕の前に立つ碑は「四谷大木戸跡碑」。
昭和34年の地下鉄工事の際に出てきたという玉川上水の石樋を利用した、記念碑ね。実際の大木戸はこっから80m東にあったそうだけども。
今朝はここから新宿御苑外周を1周してきました。もちろん、まだ、この時間は入園できんので。そして甲州街道の南にできているニトリや高島屋のビル横を通り、甲州街道へ。
いやいや、変わりました。
甲州街道の南側って、どんなんでしたっけ。記憶に、ない。まったく印象に残ってません。それが再開発で、まあ、おしゃれな場所に様変わりね。
僕が東京で暮らしてた頃はこんな感じ。甲州街道から南へ行くことなんて、ありませんでした。
最先端の土木技術で構築された上水が流れてた新宿駅南口の南側には、新宿バスタができ、おしゃれな巨大商業ビルが立ち並んで、JR新宿駅新南口改札なるものができてるのは、ぜんせん知らんかったです。知らないうちに、どんどんどんどんと風景が変わってゆくのについていけてない、僕。
まあ、別についていく必要もないんだけどね。