松本さんではなくて松木さんです〔5820〕2019/03/23
2019年3月23日(土)良いお天気
今日は忙しい土曜日。なので、早朝起きだして走ってきました。5時スタート。
未明の鏡川沿いを走って、まずは潮江天満宮。まだ朝まだきの天神様は、静かに美しい。楼門の道真公、高視公を拝み、神池に参拝。そして参道両脇に鎮座まします臥牛像で、牛さんのご利益を頂く。
そして拝殿。お参りを済まして、拝殿に向かって左へ回ると、4柱の摂社が並んで鎮座まします。
写真は、その場所。左端の島崎神社さんは写ってません。左から、早良宮、若栄社、そして白太夫社。今日は、この白太夫社について、書きます。
本当に申し訳ない。申し訳ございません。この白太夫社に祀られている人物を、僕は、このにっこりひまわりで幾度も幾度も「松本白太夫」さんと書いてきました。「松本白太夫」で検索すると、僕のにっこりがいくつも検索に引っかかるくらい、幾度も幾度も。
ところが。
以前、会社の方に、それは「松本」ではなくて「松木」なので訂正してほしい、との電話が掛かってきてました。伝言で聞いてまして、調べてみると本当にそう。松本白太夫さんではなくて、松木白太夫さんでございました。謹んで、訂正とお詫びを申し上げます。本当に申し訳ないことをしてしまいました。
どういう理由でこうなってしまったのか。それは、某説明板に、堂々と「松本白太夫」と書かれていたのでそれを鵜呑みにしてしまったから。ちゃんと調べんかった、僕が悪い。でもね、今もその説明板は堂々と「松本春彦」なんですね。これは訂正して欲しいところ。
この「松木」白太夫さんの伝説は、いろいろ、あります。土佐に伝わる伝説は、こう。
本姓渡會春彦さん、または松木春彦さんは、菅原道真公に親しく仕えました。菅公が太宰府に左遷されてからも、他の人が政権を忖度して会いに行くのを憚っているときに、堂々と親しく仕えたという春彦さん。白太夫さんとも呼ばれた、松木春彦さん。矜持の人だ。
延喜三年に道真公が太宰府で薨去されると、道真公の嫡子で、土佐権守に左遷されてた高視公に、道真公の遺品を届けるべくやってくる。しかし、潮江に住んでた高視さんの邸まであと少し。大津村舟戸の雲門寺まで来たところで、白太夫さん、力尽きて亡くなってしまう。あと少しなのに。
遺品は高視公に届けられ、それを御神体として祀ったのが潮江天満宮のはじまり、という話。そして白太夫さんは、天満宮に菅公と一緒に祀られるようになり、また、大津の舟戸には、白太夫神社が鎮座、そこから山を登った場所に、白太夫さんのお墓とされる場所が、あります。
これが、土佐の白太夫伝説。
ところが「松木白太夫」で検索すると、このようなページが出てきます。潮江天満宮縁起に至るまでのストーリーは概ね、同じ。ところが白太夫さん。ちゃんと遺品を高視さんに渡すことに成功し、出身地である伊勢に帰る。そして、代々神官をつとめてきた豊受大神宮の禰宜となって、今に伝わる様々な神事作法を確立したという話。伊勢で、天慶九年に亡くなっている。そんな伝説。
さて。
諸々、重要な話でありそうだけども、色んな話があって、本当のことは僕にはわからない。でも、間違いないのは、松本白太夫さんではなくて松木白太夫さんであること。これだけは、間違いない話なので、深く深くお詫びしながら訂正させて頂きます。
今朝は、そんな反省をしつつ、天満宮本殿裏手の大山祇神社と磐座にお参りし、筆山で用事を済ませ、南嶺の尾根を東へ、宇津野山を越えて西孕の先っぽまで尾根を縦走し、帰ってきました。
良い、早朝RUN。身体、軽いですな。ダイエットは、色々と、良い。