弘岡町、エビス堂〔5692〕2018/11/15
2018年11月15日(木)晴れ!
昨日、「南路志」を編纂した武藤父子のこと、書きました。朝倉町の豪商美濃屋、7代目8代目のご主人。で、その「南路志」に、高知の城下で「本丁、弘岡町、朝倉町、新市町、材木町、蓮池町、山田町、以上是を七蛭子と云う」と書かれております。七蛭子。七恵比須。七エビス。恵比寿さんは、言わずと知れた商売の神様。城下町が建設された際、商売が盛んに行われた町の中心にエビス堂が置かれ、人々の信仰を集めた、という訳だ。
エビス様で思い出すのは、えびしば。新京橋と京町のよさこいチームはエビスしばてん踊り子隊ということで、通称「えびしば」だ。これは、京町に恵比寿堂があることにも由来する名称。今は、京町南側の、旧堀川親水公園に鎮座まします恵比寿堂。でも、この恵比寿堂はどうやら別格で、城下「七恵比須」には含まれてない。
で、七エビス。ご紹介したことあるのは、朝倉町の恵比寿堂。立派なお堂があって、今も大切にされている朝倉町の恵比寿堂。今は恵比寿神社と言いますな。
で、弘岡町にも恵比寿堂、ありました。元々、弘岡村の辻という場所にあったんだとか。伝説では、こう。弘岡村辻の恵比寿さん、仁淀川の大水で流されてしまう。その、流された恵比寿さんの厨子が浦戸へ流れ着き、浦戸城下に安置して祀っていた。その厨子が、高知の城下町が建設されるに際し、ゆかりのある弘岡町へと遷され、城下七恵比須の一つとなったんだとか。
確かに、桂浜の五色の石は、仁淀川が様々な地層を横切って流れてきて、それが太平洋を経由して桂浜にたどりついたもので、色んな地層の石の色が五色になって見えるものですきんね。仁淀川に流され、浦戸に漂着というのは、なんか、説得力ある話。
写真は、夜明け前の弘岡町。土手の上には料亭濱長。土手を下った左手に、こんな祠が鎮座まします。弘岡町を走ってみても、お宮さんらしきは、ここしかない。ここが、弘岡町の恵比寿堂だったんだろうか。今は塀で囲まれ、小さな門が閉まってます。その門には鍵がかかってないので、門の棒を抜いたらこうやって入ってお参りは、できる。ひっそりと静かにたたずむ、祠。
ここが昔から恵比寿堂であるとするならば、ここが弘岡町の賑わいの中心であったのか。弘岡町の西端は、電車通りを渡った西側。その一角は明治期の市街図に「ウオノタナ」と見え、弘岡町には魚棚もあったことが、わかります。
江戸時代。エビス堂を中心にエビス講が組織され、祭日にはエビス講で盛り上がったと言います。商売繁盛を祈願して。
各所のエビス堂は、そこがその町の商いの中心であった。そして商売繁盛を願う民衆の思いは、その恵比寿堂信仰に込められていた。
静かな未明の祠で、そんな賑わいを想像し、商売繁盛を願う。