汐留駅と築地と浜離宮〔5676〕2018/10/30
2018年10月30日(火)晴れ!
天皇陛下、昨日の午後、無事、弊社の近所の空港から帰られました。なかなか盛り上がった高知県でございました。皆さん、お疲れ様でした。
さて。こないだ、知人からコピーを頂戴した岩波写真文庫「高知県ー新風土記」というののこと、書きました。昭和25年~30年頃の高知県のことがよくわかる、写真冊子。すごい。その方が見つけたのは原本なんですが、調べてみると、今、岩波写真文庫は、そのいくつかが復刻版となって販売されているらしい。一冊700円で。そこで早速、いくつか取り寄せてみました。
すごい。面白い。全部、往時の生活文化がリアルタイム写真で紹介されており、僕が生まれる数年前の日本には、こんな風景があったのか、と圧倒される内容ばかり。まあ、それは追い追い話すこととして、今朝は、その中の一冊「汽車」の中の一頁。
この「汽車」は、1951年(昭和26年)初版発行。その時代の、日本の鉄道について詳しく紹介しているもの。もちろん主役は蒸気機関車で、たくさんの人々が、蒸気機関車や線路の業務に携わっている様子が生き生きと描かれる。今とは全く違う、鉄道が輸送の花形であった時代の活気ある風景。
その中の一枚が、この写真。
「貨物駅」という項目で、汐留駅の様子を紹介している写真。「明治5年に日本で最初に敷かれた鉄道の始発駅であった新橋駅の跡」という紹介。都心ど真ん中に、このような貨物のスペースがあった訳だ。右手は、地理院地図の、その頃の航空写真。実際には、これ。
この十字の場所あたりから撮影したのが、この本の写真ではないかと想像します。その航空写真の、現在の様子が、これ。高層ビルが立ち並んで、もう、何がなんだか。でも、築地の方へカーブしていく線路の痕跡は、電通のビルの形状に痕跡として残ってます。こんな感じで。
この冊子の写真の、右カーブしている白い屋根の建物の左の線路を向こうへ行くと、そこは築地。築地は、鉄道輸送と不可分の関係にあったことが、この航空写真でよくわかります。汐留貨物駅があり、そして築地があった。築地には扇方のプラットホームがつくられ、そこで荷下ろしをする。そこには大卸の業者があり、荷受し、扇の内側の仲卸業者へと引き渡されいていく。仲卸業者は、その北側の広いスペースで小売人や飲食卸、飲食業者などとの商いを行う。その、境目が曖昧な空間は築地の場外へも広がり、世界一の市場、日本の食文化の中心を形成していった。
そんな状況がよく理解できる、この美しい航空写真。
豊洲はそこで完結する閉鎖空間であるのに対して、築地は巨大はオープンスペースであった。
この航空写真を見ながら、不遜極まりない妄想を、ひとつ。
確かに、コールドチェーンとか衛生管理とかいう面で、老朽化した現在の築地に限界があるのは事実。そこで、築地の、日本橋魚河岸から連なる文化を継承し、「流通センター」ではなくて「市場」を目指すのであれば。
良い場所があるではないか。すぐ隣に。浜離宮恩賜庭園が、ある。恩賜庭園というくらいなので、かつては皇室の離宮であった、場所。明治になる前は徳川家の別邸「浜御殿」。そういう由緒ある場所で、皇室にも関係があるということでアンタッチャブルなんでしょうかね。でも、築地の広大なオープンスペースという特徴を維持しつつ、新しい衛生管理の市場をつくるんだったら、この場所、良いのではないかと、この航空写真を見ながら妄想した訳です。現在は都立庭園なので、東京都の土地だから、用地買収の必要も、ない。
自然についての思いが深い天皇家の皆さんにとって、その自然豊かな庭園を市場にする、というのはどういう思いなのか想像することはできない。けど、たぶん、笑って許してくれるような気がします。いや、絶対に大賛成だったと思う。なんとなく、確信できる。そんな気がする。
そんな構想、なかったんだろうか。
今となってはどうしようもないけど、この写真を見ていると、そンな妄想が暴走する。都市計画は、やはり、効率だけではなくて、思想が大事。