鏡川一斉清掃の、夏〔5576〕2018/07/22
2018年7月22日(日)晴れ!
第30回浦戸湾七河川一斉清掃。本当は7月8日の朝、行われる予定でしたが、あの大雨。鏡川も増水して、清掃どころではありませんでした。日程は変更となり、本日となりました。
それにしても暑い。この炎暑の中、一斉清掃はキツいですね。でも、このところの暑さに比べたらマシ。あまりに暑い日が続いたので、少し気温が下がっただけで、本当は十分に暑いけど涼しく感じるのが不思議。慣れというのは恐ろしい。安部公房の「砂の女」を思い出す。関係ないけど。
今年で30回目か。と、言うことは、平成の歴史とともにあった訳だ。浦戸湾七河川一斉清掃。その前身となったのが、ここ鏡川の一斉清掃。
昭和44年、高知市民憲章というのが制定された。その市民憲章の最初に出てくるのが、
1.鏡川を清潔なまちのシンボルにしましょう。
というやつ。で、それに合わせて始まったと思われるのが、鏡川一斉清掃。昭和44年。僕が8才。その頃、父は南与力町の町内会長で、地元のお世話をやってました。そんな関係で、その清掃にも積極的に参加。息子の僕は当然のように駆り出され、毎年、暑い中、ここの掃除をしたのでありました。
あれからもう、49年か。たぶん、来年で50年。
平成になる頃、鏡川だけではなくて浦戸湾全域に清掃活動の範囲が広がって浦戸湾七河川一斉清掃に。
僕は、この49年の間で、少なくとも40回は参加してます。間違いない。中高生の頃の記憶が定かではないけど、小学生の頃は皆勤だった。考えてみれば、そんな訳で僕は最多出場の可能性もありますね。
にっこりひまわりでも、毎年、この一斉清掃の模様はご紹介してます。Jr.達が小学生の頃は、僕も連れてきてました。2004年の一斉清掃の写真が、これ。大きい方の小学4年生Jr.1号は、もう、社会人になって東京で暮らし始めました。小さい方のJr.2号小学1年生は、大阪で大学3年生。時の流れに身を任せ~
幾度も書いてきたけど、幕末、慶応三年の夏。この河原に、毎夜毎夜、夕涼みを兼ねて夥しい善男善女が繰り出し、前の人の腰に手を回して繋がる長い列をつくって、クネクネと河原を踊りながら練り歩く「のえくり」というものが大流行しました。
そもそも、大阪からやって来た商人たちが、高知の暑さに耐えれず、河原に酒肴を持ち出して飲み食いを始めたのがきっかけとされます。で、大阪者が京の踊りとか言いながら踊り始め、土佐人も負けてはならずと踊り始める。そして、人が人を呼び、大流行。
毎夜数百軒の出店。河原を埋め尽くす群衆。
丁度その頃、暗殺される直前の龍馬が、土佐へ帰ってます。龍馬も、その「のえくり」を見ただろうか。
当時の高知は、今よりも涼しかったと思う。
この河原での、秋まで続いた毎夜の大騒ぎ。
ここにそんな風景があったことは、想像もできません。そもそもこの暑さの中で、そんなことしようという発想が浮かばん。河原で飲むのが一番涼しかった、そんな時代の夢のような一コマ。
もしかしたら、この川底には、当時からの岩石とかが残っているのかも、知れない。幕末土佐の夏。毎夜毎夜の大賑わいを知っている岩石があると想像したら、川にぞぶってゴミ拾いをするのも、楽しくなってくる。
夏本番。鏡川。