秋葉原〔5309〕2017/10/28
2017年10月28日(土)薄曇り
で、今朝は東京。昨日の午後、函館から新幹線でモンて来ました。新幹線はまたまた満員。この季節。人の移動が多いんだろうか。
昨夜は銀座にある高知県のアンテナショップ「おきゃく」で、おきゃくしよりました。現在、「おきゃく」の料理長は山下さん。高知市内の老舗有名ホテルの元料理長で、以前から仲良くさせて頂いてますが、やはり素晴らしい。高知らしい料理が堪能できる、銀座の「おきゃく」。清水サバと塩タタキのレベルは非常に高かったです。今が旬の四方竹もね。
今日は、神田界隈で用事を済ませ、午後の飛行機で高知へ帰ります。泊まっていたのは秋葉原。
写真は秋葉原。駅の南東。向こうに見えるのは、2005年にできたヨドバシカメラの大きなビル。
秋葉原の歴史は、なかなか面白いですね。
もちろん秋葉原の秋葉は秋葉神社の秋葉だ。日除けの神様、秋葉神社。
江戸時代、この界隈は、神田川を利用した船による物流が盛んであった。特に材木問屋が多く、また、薪炭問屋も多かった。火事になったらおおごと。
で、明治になってすぐの明治2年、大火がおきる。その大火を受けて、現在の秋葉原駅の辺りに火除け地がつくられ、翌年、「鎮火社」が明治天皇の勅命でつくられるのである。が、庶民は火伏せの神様だから秋葉大権現と呼んで親しむようになった。そして、広い火除け地は秋葉の原、秋葉原と呼ばれるようになる。明治の初期の頃の話。
明治中期、上野駅が手狭になったため、貨物専用の駅をつくる計画が持ち上がる。で、上野駅から南へ行った火除け地に新しい貨物駅をつくることにした訳だ。その際、秋葉神社は入谷に遷宮。
貨物駅としてスタートした秋葉原駅。貨物ですきんね。高架では非効率なので、地上線が引かれました。高架になるのは昭和の初め頃。
で、この写真。
物流の動脈であった神田川から、秋葉原にできた貨物駅に堀が掘られ、船溜りがつくられたのであります。あのヨドバシカメラの場所に、船溜り。
北から南下してきた貨物列車は、秋葉原駅にあった転車台で向きを90度変え、船溜りに横付けして荷物の揚げ降ろしをしていたとのこと。その船溜り、地理院地図の航空写真で確認できます。
昭和11年のが、これ。駅の東の白い部分。そこが船溜りで、南の神田川とつながる堀が見えます。その頃は、もう、貨物駅も高架になっているので転車台はない。
戦後すぐの航空写真は、これ。船溜りと堀の様子がはっきりと確認できる。
でも、高架から地上へ荷下ろしするのは大変だ。徐々に秋葉原駅は貨物駅としての機能を低下させていき、昭和50年、貨物の取り扱いを中止。貨物駅であった場所には、今、東北新幹線が走り、再開発で駅前広場になっていたりするのであります。
ヨドバシカメラから南にある、この公園。ここが堀割りであったことは、この、橋の欄干で確認できます。そう。ここにあった堀を、秋葉原駅前の船溜りで荷物を積んだ船が往来していた。そんな、歴史だ。
僕らが学生時代は、秋葉原は電気街。電気工作に興味がなかった僕でも、安い家電製品を買いにきたことが何度もある。
そして今はサブカルチャー氾濫する、若者の街。
火除け地。貨物駅と船溜り。電気街。サブカルチャー。この変遷はすごいね。ここが火除け地にならなかったら貨物駅にもならず、秋葉原駅にもならず、船溜りもなくて人の賑わいもなかったのだろうか。それは、誰にもわからない。
秋葉原駅が貨物駅で、物流の拠点であった痕跡は、この公園と橋の欄干に残るだけ。