行ってみないとわからない〔5294〕2017/10/13
2017年10月13日(金)曇り
こないだ、阪急蛍池駅の由来とか、そこが元々は麻田という地名であった話とか、書きました。で、そもそもの蛍池という池はどこにあるんだ?という謎も、提議しました。
わかりました。蛍池。
蛍ヶ池と言うた方が良いのでしょうか。阪急の蛍池駅に地図が掲示してあって、そこにちゃんと書いてあるではないか。こないだは迂闊にも気付かんかった、地図だ。なんちゃあじゃない。
ウィキに蛍池駅の北東400mに、その由来となった蛍池がある、などと書いてあるので間違うんですね。全然北東ではないではないか。東だ。真東。この地理院地図をご覧ください。刀根山という山の南東、特別支援学校の横にあるのが、蛍ヶ池。かつて、蛍狩りで有名であったという池は、ここにありました。
現在は、このように周囲を柵や有刺鉄線で囲まれ、池に近づくことはできない。そうですね。保育園や学校も多く、事故も起こりやすい池でしょうきね。これは仕方ないのかも、知れません。
で、駅からここへ歩いて行ってみて、わかりました。この界隈の地形は面白い。
実に、起伏に富んだ土地。駅から真東に進むと、急坂や小山に阻まれます。なんとか、小山と池の間の道を進む。そのまままっすぐ行けそうだ、と思っていると、違う。また、丘が現れ、その丘の急坂を越えて下ると、やっと蛍池だ。これは複雑で、面白い。
元々の地層は鮮新世から更新世にかけてできた、砂れきと粘土の混じった地層。侵食されやすいんでしょうかね。このように複雑に谷が入り組んでいるのを、樹枝状侵食谷と呼ぶ。本当に、樹の枝のように複雑に谷が切れ込んだ土地。そんな地形が延々と展開する、大阪北部の丘陵地帯。
で、地理院地図で見てみても、実に池が多い。少し引いた視点で、土地条件図を見てみるとよくわかるけど、本当に池が多い。
この池、どうやら溜池だ。
この丘陵地帯は、江戸時代になるまでは人も住まない不毛の土地であったようです。そこに、複雑な谷を堰き止めて池をつくり、農業を始めた。
短い河川と谷が多かったので、溜池、つくりやすかったんだと思う。そうして藩政期に人々が暮らすようになり、近代になって、大阪の人口爆発の受け皿として宅地が広がっていった丘陵地帯。
そう。
この写真を見たらわかるように、この蛍池の南側は、池よりも低い平地が広がってます。だから、この池は藩政期に構築された溜池だ。灌漑用の、ため池。そうだったのか。
その池にいつしか蛍が舞い飛ぶようになり、蛍狩りの名所となった。
その池の名前に目をつけた小林一三が、電車の駅名を蛍池駅にした。そんな歴史か。
地図で見ただけでは、こんな地形や歴史、ぜんぜんわからない。やはり、現地へ行って見てみること。
こないだ、高知大学の学長選考会議所信表明の会で、ある学長候補者の先生が、いくら本を読んでもネットで調べても、それだけではダメだ、現地へ行って現場を見る、調べるということがなければ研究ではない、とおっしゃっておられましたが、その通り。
蛍池という地名の成り立ち。その歴史。それは、現地を歩いてみて初めてわかりました。
これ、仕事でも同じ。
現場へ行ってみないと、わからない。お客さまの現場。工場の現場。本当のことは、現場にしか答えがない、ということ。
朝っぱらから勉強になりました。今日は大阪、滋賀、そして福山と移動する予定です。